【Webzineタマガ】 なぜ、「便器」を美術館のトイレに戻したのか/タマガリポート

 昨年10月11日の午後、本学八王子キャンパスにおいて、『便器はトイレに戻す。さて、それから…』と題された、美術評論家の峯村敏明本学名誉教授による特別講義が開かれた。「便器」とはマルセル・デュシャンの『泉』を指しているようだ。しかし、それをトイレに戻すとはいったいどういうことなのか。

講義風景(本学八王子キャンパスにて)

講義風景(本学八王子キャンパスにて)

 近年ますます「現代美術」への疑いが強くなっている、という冒頭の発言に驚いた。現代美術の批評を核に、国際展の運営や審査、国内での展覧会の企画等、長くこの分野に携わってきた評論家がなぜこのような思いにいたったのか。

 それは、「現代美術」が“言語喪失状態”にあるからだという。例えば絵画や彫刻のように、美術にはそれぞれの領域に固有の素材、技法、システムがある。しかし、20世紀初頭、マルセル・デュシャンのあたりから始まった現代美術では、前時代のものをひっくり返し、切り捨て、各領域に固有の素材や技法やシステム、つまり造形言語を意図的に破壊してきた。そうした動きが1世紀近く続いた結果、固有の言語を失った今日の「現代美術」は何でもありの状況になっているというのだ。

 美術におけるこうした特殊な状況は東日本大震災を通して如実に表れた。「災害や原発事故で苦しんでいる人たちの足しになった作品はひとつとしてない」。さらにこう続けた。「最大の問題は、芸術が“言語活動”であることを放棄している点にある」。共有する言語があるからこそ、発信したメッセージが相手に解釈され、伝わるのだ。言語を欠いていては相手にメッセージは届かない。

峯村プロフィール

(みねむら・としあき)1936年長野県生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。毎日新聞社に在職中の67~68年フランス政府給費留学生としてパリに滞在。71年に退社後、美術評論活動に専心。パリ青年ビエンナーレ国際組織委員およびサンパウロ・ビエンナーレ国際審査員を歴任。79~2006年多摩美術大学にて教鞭を執る。現在、同名誉教授、多摩美術大学美術館館長、国際美術評論家連盟日本支部会長。『平行芸術展』(1981年~2005年、小原流会館)『もの派とポストもの派の展開』展(87年、西武美術館)を企画。著書に『彫刻の呼び声』『平行芸術展の80年代1981-1991』『デ・キリコ』などがある。

 問題はほかにもあるという。次々と新しいものを突き付けることを繰り返しネタが尽きると、作品や活動ではなく、作家自身のプライベートをさらけ出すことが「現代美術」の大きな要素になってきた。これを次のように批判した。「造形言語を欠いた芸術家が芸術以外の己をさらすのは陳腐でしかない」。

 1960~70年代の文化革命後の中国現代美術は、デュシャン以来の言語喪失状態における表現を短期間のうちに数十倍に増幅して見せたという。板橋区立美術館の男子トイレに設置されている中国人アーティスト牛波(ニュウ・ボ)の『泉水』もそのひとつだ。この作品はデュシャンの『泉』を引用している。しかし、それを単に賞賛しているわけではない。『泉』は「便器」を実用から引き剥がした。いわば、特別な手を加えることなく思考によって作られた作品といえる。対して牛波は、デュシャンの押した芸術的烙印を帯びた「便器」を、美術館においてトイレという実用の文脈に戻したのである。そこには、20世紀美術の遺産を受け取りながらもさらに先へ進もうとする牛波の批判精神が見て取れる。だが、結局のところこの作品も造形言語を見いだす努力を怠っているという。

 では、固有の言語を踏まえた現代美術はあるのか。同じくデュシャンを引用している画家、王舒野(ワン・シュウイエ)が紹介された。伝統的な技法ではないが、彼は絵画をその固有の言語の具である絵具と筆で描く。均質な筆触が覆う画面には輪郭線はない。二元論的な事物の関係ではなく、主体と客体の境界を曖昧にすることで相互が呼吸し合うような世界を創出している。もじるのではなく、大芸術家の作品を自身の絵画的言語の中に取り込んでしまったのだ。

 固有の言語を駆使する先にこそ表現の可能性を見る。そしてこう締めくくった。

 「馬鹿な芸術家がごまんと出てくるのを21世紀とは思いたくない。ここでは、こうありたいという私の願望をお伝えしました。若い皆さんに考えていただけたら有り難い」

 

取材・文=地引朋子

撮影=野村さくら


「タマガ」とは=多摩美術大学芸術学科フィールドワーク設計ゼミが発行しているWebzine(ウェブマガジン)です。芸術関連のニュース、展覧会評、書評、美術館探訪記、美術家のインタビューなどアートにかかわる様々な記事を掲載します。猫のシンボルマークは、本学グラフィックデザイン学科の椿美沙さんが制作したものです。