【レポート】Image Forum Festival 2018レポート(2)

●「東アジア・エクスペリメンタル・コンペティション」から

『ヒトコト劇場』(#1-#101) 桜井順・古川タク/デジタル/37分/2012-2018

作詞家・作曲家でCM音楽の巨匠である桜井順とアニメーション作家の古川タクが共同で制作、合計年齢160歳の巨匠コンビから生み出された現代の風刺アニメーションである。ネット上で不定期に発表され100本以上の短編により構成される。数十秒の超短編アニメーションが次々と展開され、古川タクの独特な愛らしいキャラクターが映し出される一方で、言葉や題材は皮肉を多分に含んだ風刺的なものばかりで、会場からは苦笑が洩れていた。

超短編だけにテンポが非常に早く、その感覚はInstagramのストーリー機能やTwitterのタイムラインのスピード感にも似ていた。動画に合わせて流れる声にはエフェクトがかけられ人物像や感情を読み取ることができず、この点でもSNSにおける匿名性に通ずるものを感じた。現在、ネットの中では様々な批判や中傷が短い時間で生まれては消えるという現象が繰り返されているが、本作はそのようなネット社会を表しているようにも感じられた。(文=4年・師富)

9月15日~17日、横浜美術館でイメージフォーラム・フェスティバルが開催された。9月16日に上映された「東アジア・エクスペリメンタル・コンペティション2」を見て、映像作品の幅は非常に広いと感じた。幾何学模様がひたすらに街を構成しては崩れていくなどの映像作品もあり新鮮に感じた。ここでは特に印象に残った2作について述べたい。
『註釈する女』(インウェイ・ミン、台湾)では、場面はほとんど小劇場前の溜まり場と劇場内で構成され、登場人物の紹介がほぼないということもあり、複数回見ないと把握できない内容に思えた。過去の回想シーンが切り替わったと思ったら、また急に現在に戻ってくるなどの場面の転換が多く、見ていると少し混乱する。「註釈する女」というタイトルのように急に語り手のような女性が登場したり、突然男女の言い合いが始まるなど、目まぐるしい作品であった。


山城知佳子の『土の人(劇場版)』では、地面に泥だらけになった人々が寝ている姿が多く見られ、それが非常に不気味に感じられた。その泥だらけの人々が土に埋められる描写もあり、土に埋めることは殺すことと一緒なので描写とはいえ非常に怖いものに思えた。戦争の映像がたびたび映し出されるなどの効果もあり、土に埋めるという描写は戦争で泥だらけになって傷ついて犠牲になった人々を弔うことを表現しているように感じた。撮影地が韓国・済州島と沖縄ということからもこの作品の根幹には戦争や日本統治時代などがあるように思えた。
今回のIFFのテーマは「ヴォイセズ」であったが、声や証というものをこの作品からは強く感じた。戦争を体験したことのない私達には、歴史という誰かが残した証でしか戦争を理解することはできないが、この作品は痛みのような、叫びのような思いが声になって聞こえるように思えた。(文=3年・大井)

東アジア・エクスペリメンタル・コンペティションの『長江の眺め』(シュー・シン、中国、156分)と『スローモーション・ストップモーション』(栗原みえ、日本、153分)、この2作品は色彩や緊張感、作品全体を通して漂う匂いや温度に関していえば両極端といえるだろう。

『長江の眺め』は全編モノクロ長回しで、カメラは人の視点ぐらいの高さに固定されたものが多かった。カメラは上海から源流の宜賓まで長江の要所要所を順々に遡っていく。その要所要所でなにか政治的な悲劇が字幕で語られるが、その説明は最低限に止まり、映された映像は事件そのものではなく現代のその地の人々の生活である。それが冒頭から終わりまで続く。この映画はきわめて政治的な映画であるのか、きわめて芸術的な映画であるのか、はたまた精神分析的なのだろうか。説明の少なさも相まってその見方は多様である。私が感じたのはそういったものを超えたもの、何かもっとありのままの、ひとつの川に迫る意志だった。しっかりと最後まで見切るカメラに、ありのままを撮ろうとする強い意志を感じたのだった。

一方『長江の眺め』とはまるで違った色を持つ『スローモーション・ストップモーション』(大賞受賞作)は、明るく、温かく、生き生きと色彩豊かだ。子供たちの笑顔の多い映画だと思った。カメラは、あるときは安い中国製のGoProもどきで、またあるときはそれが子供の手に奪われる。カメラはつねに彼らの関係のなかにある。そして、この映画を通して語られる独特なナレーション、カメラマンであり監督でもある栗原みえのとぼけた穏やかなあり方を通して、そのカメラは人々のデリケートな内部を優しく写し出す。タイの人々の体温のような温かさを伴ったこの映画は『長江の眺め』とはまた違った角度、アプローチで、確かに繊細で微妙な人の心に寄り添うように迫っている。(文=3年・高岡)