【活動報告】「21世紀文化論」講演:黒沢清(映画監督) 「シネマ、辺境への旅――『旅のおわり世界のはじまり』公開記念レクチャー」

多摩美術大学・芸術学科主催「21世紀文化論」
講演:黒沢清(映画監督)
「シネマ、辺境への旅――『旅のおわり世界のはじまり』公開記念レクチャー」

去る2019年7月13日(土)に、本学・芸術学科主催による「21世紀文化論」の授業のなかで、映画監督の黒沢清氏を招聘し、特別レクチャーが開催された。ウズベキスタンと日本の合作として完成された映画『旅のおわり世界のはじまり』の劇場公開がスタートし、それを記念する形となった。同学科の准教授・金子遊が聞き手をつとめ、レクチャー後には学生たちが活発に質問する姿が目立った。その一部始終をここに掲載する。(構成=金子遊、構成協力=コトニ社、写真=芸術学科研究室)

 

黒沢監督の学生時代

 

——黒沢清監督は、神戸の六甲学院高等学校を卒業しました。中学校、高校時代はバレーボール部で活躍したそうですね。高校時代から映画監督の道を志していたこともあって、もともとは日本大学芸術学部を志望していたということですが。

 

黒沢 映画監督を志していたというほど、はっきりしたものではありませんでした。高校生くらいのときに受験勉強に挫折した。そのときから映画を見るのは好きだったから、受験勉強をしなくても入れるような大学はないかと考えていた。大学に入っても何らかのかたちで映画にかかわっていられる大学は、当時は日大の芸術学部しかなかったのです。

 

——当時は、いまのように四年制大学で映像表現や映像製作を学ぶことはできなかったのですね。黒沢さんは立教大学に入って、そこで8ミリ映画を撮影するようになったということです。

 

黒沢 最初は趣味のようなものでした。そのころの僕は何を考えていたのかな。日芸は受けたけれど落ちました。一浪して、どこでもいいからというので立教大学に入ったけど、将来のビジョンははっきりしたものではなく、ただ8ミリ映画は撮りたいと考えていた。一人で撮るのは難しかった。立教大学に入った唯一と言ってもいい理由は、映画サークルに入り、8ミリ映画を撮ることでしたね。入学してすぐにしたことは、いろんな映画サークルがあるなかで、8ミリ映画を専門に作っているサークルを見つけ、そこに入ることでした。

 

——そのころの立教大学にいて、のちに映画監督になった人としては、周防正行、万田邦敏、塩田明彦監督がいます。下の世代には青山真治監督もいて、錚々たる面々がいたのですね。

 

黒沢 みんなはたいてい僕よりも年齢が下なので、僕が入ったあとにきた人たちです。周防正行と万田邦敏は一学年下で、周防さんは在学中は知り合いじゃなかった。塩田明彦はもう少しあとに同じサークルに入ってきた。ということで、僕が入ったときは、それほど映画好きな人間はおらず、ましてやその後映画界で生きていくような人間がいる感じはなかったですね。

 

——ドキュメンタリー作家の森達也監督も同時期に立教大学にいた。

 

黒沢 同じサークルでしたね。

 

——一九七五年に入学しているから、その頃は蓮實重彦さんという日本を代表する映画評論家で、かつフランス文学者が「映画表現論」という講義をやっていましたね。蓮實さんの『映像の詩学』という最初の評論集が出る前に、黒沢さんはその講義に出ていて熱狂するわけですよね。

 

黒沢 一般教養の科目のなかに「映画表現論」があったのです。映画はもちろん好きだったから、好きな映画についての講義を受けるだけで単位をもらえるならば都合がいい、という程度の動機で受講しはじめた。それがたまたま蓮實重彦という人の講義だったのです。当時の僕は彼が誰なのかもわかっていなかった。蓮實さんは映画評論を書いていて、いくつかの雑誌にも掲載されていましたが、まだ映画評論の単行本は出していなかった。だから、まだ蓮實さんのことを映画評論家としてはおそらく誰も認識していなかったと思います。けれども、蓮實さんの講義をふらりと受けはじめた僕の人生は、そこですべてが変わってしまったのです。

 

——どのような講義だったのですか?

 

黒沢 僕も映画に関しては、いろいろとすでに本を読んではいたので、多少警戒していました。最初の講義で『戦艦ポチョムキン』(一九二五年)を観せて、そこでモンタージュ理論を教えましょう、というようなものだったら、「あ、その程度か」と思っていたかもしれません。けれども、蓮實さんの講義は違っていた。いきなり、当時公開されている映画を観に行ってくれ、というわけです。いろんな映画が上映されているのに、そのなかから「ドン・シーゲル監督の『ドラブル』(一九七四年)という映画が大傑作なので、これをみなさん観に行くように」と言うわけです。僕はどのみち観に行くつもりの映画だったから、すでに前売券を買っていた。「えっ?これを観にゆけと言うの?」という衝撃があった。なぜなら『ドラブル』はどちらかというとB級映画に近いものだったから。これがまずは、僕にとっての最初の衝撃でした。

 

——蓮實さんの映画評論のスタイルは表層批評ですね。まずは映画の表面で起こっていることだけを見つめろ、という。あとは「テマティシズム」もあります。たとえば、小津安二郎の映画の場面にでてくる「食べること」や「階段を上り下りすること」といったものを考察する。当時、映画を作りたがっていた青年たちが、そのような批評に熱狂したということでしょうか。

 

黒沢 一年留年したので、僕は大学に五年間いました。その五年間ずっと蓮實さんの講義を受けつづけた。そこからいろんなことを学びましたね。物語や登場人物のキャラクターとはまったく関係のないところで、映像に何が映っているのかを見るということを散々やった。いまでも不思議なのですが、ふと蓮實さんが「映画というのはこういうものですから」とおっしゃることがある。そのときは僕も8ミリ映画を撮っていたので、実際に撮ってみると「たしかにそうだ」とおぼろげに実感することを、蓮實さんは実際に撮ってもいないのにズバリと指摘する。それは蓮實さんがたくさんの映画を観ているなかで自然に気がついたことなのか、あるいはフランスあたりの日本語に訳されていない文献にそういった指摘があったのか、僕は知りません。たとえば、蓮實さんが「見つめ合っている二人のまなざしを同時に撮ることはできません」と言う。これは映画を撮った経験のない人間には、一瞬何のことかわからないようなことです。見つめ合っている二人のまなざしを同時に撮ることはできない。これは、映画を撮る側の人間にとっては、演出する際に決定的に重要なことです。
 誰かと誰かが、喫茶店かどこかで向かい合って話しているとしますね。さあ、どこにカメラを置いて、どう撮ろうか。当たり前のことですが、どちらかの顔を見せようとするともう一人の顔は見せられない。うしろ姿になってしまう。だから、監督はどちらの顔を撮るかを決めなければならない。どちらも撮っておいて編集する際に決めるという方法もあります。撮るときにこちら側は撮らないと決めることもある。いずれにしても両方同時に撮ることは無理です。こうしたことは、いまも監督たちにとっての大きな決断の一つとして存在する。蓮實さんという評論家は、そのような映画製作する側の機微にまで届くようなまなざしを持っていて、学生時代に彼から映画を学んだはことは、僕にとって一生を左右する決定的なできごとでした。

 

黒沢映画における旅

 

——『岸辺の旅』(二〇一四年)や、最新作『旅のおわり世界のはじまり』(二〇一九年)に通底するテーマである「旅」にお話をお聞きしたいと思います。まず『岸辺の旅』は浅野忠信と深津絵里が演じる夫婦の旅の映画です。これまで黒沢監督はホラーやスリラーを多く撮ってきたこともあり、虚構化された夫婦のドラマになっていますね。三年前に失踪したあと自殺した浅野忠信が演じる薮内優介が、幽霊になって戻ってくるところから映画ははじまる。その夫が失踪していた三年間をどのように過ごしていたのか、妻とともに旅をしながら振りかえっていく。新聞配達を生業とする店や食堂、そして農家にも行く。

 

黒沢 『岸辺の旅』に関しては、そうした内容の原作小説だったことが大きいです。湯本香樹美さんの同名小説を映画化しようというアイデアは僕のものではなく、知人のプロデューサーが勧めてくれたのがはじまりでした。いわゆる「旅」をテーマにした映画は、それまで撮ったことがなかった。僕の作品のドラマのなかで主人公がある目的でどこかへ行くということはあるけれど、それは旅とは異なります。ある目標や目的にのっとって移動することは、これまでも何度となく撮影している。ですが、旅そのものがドラマのテーマであるということはなかったと思います。しかしながら『岸辺の旅』では、原作小説がそうであったので、はじめて旅の映画に挑むことになりました。
 そうはいっても、「この完成された映画が旅についての映画なのか」と問われれば、それはいまだにわかりません。延々と移動する風景が展開されるのがいわゆる旅の映画、つまりロードムービーだと思います。一方で『岸辺の旅』という映画は移動したかと思ったら、すでに次の場所に着いてしまっている。場所が点々と移り変わっていき、移動したその場所で日常とはすこし違う擬似的な日常を営んでいく。もともと住んでいた自宅や土地ではすることができなかった、夫婦がやり残したかわいらしい生活を、あちこちの住まいを借りながらすこしずつ再現していく。場面が切り替わると次の土地にすでに移っているので、移動における途中の経過はあまり描かれない。旅の映画であるのだけれど、これがロードムービーと言えるかどうかはあやしいなと思いながら撮っていましたね。

 

——東京の調布から旅というか移動がはじまりますね。この夫婦はバスで移動することが多い。そのなかで印象的なのが、浅野忠信の演じる優介と深津絵里の演じる瑞希が、優介がかつて蒼井優扮する松崎朋子と浮気をしていた件で夫婦喧嘩をする場面です。このシーンがバスのなかで、延々と引きの映像の長いワンショットで撮られている。あのような場面は旅の映画ならではという気もします。
黒沢 確かにあそこは唯一旅の映画らしいシーンだったかもしれません。僕も実はそうあろうと努力はしたのです。けれども日本という風土のせいか、移動してもあまり移動したという実感がない。映像的にはさして風景が変わらないのです。砂漠の真ん中をオープンカーが走るような感じとはまるで違い、場所は変わっているのですが、僕たちが常日頃身近に見ている何気ないバスの車窓の風景とそう変わらない。風景が次々と移り変わり、二人はどこに行こうとしているのかという感じは、これは僕自身の映画監督としての能力の問題もあるでしょうが、日本を舞台にすると難しいのかもしれない。そういったこともあり、旅をはじめた薮内と瑞希の二人は東京に舞い戻ってきてしまいます。

 

——ロードムービーを標榜しているのに、旅が中断されて自宅に戻ってくるというのは面白いですよね。場所を移動するという旅がサスペンドされて、いわば宙づり状態になってしまう。

 

黒沢 正直に言いまして、ここは原作と違うところなのです。原作では、二人はどんどん旅をしていき、まだ生きていたときの過去の思い出話として浮気話が語られる。つまり浮気話は過去形なのです。ここをどう扱うかは、脚本の段階で迷いました。いっそのこと全部なくす手もあったが、僕は夫婦が一瞬危機に陥るこのエピソードをなくしたくないと思った。とはいえ、思い出話にもしたくはなかったので、僕が思いついたことですが、二人がいったん東京に帰って、そこで瑞希がかつて愛人だった朋子と会うことにした。
 プロデューサーは「それでは原作とかなり異なるし、東京に帰ったら旅ものではなくなる」と言って抵抗しました。それまで夢か現実かあいまいなところで旅に出ていたわけだけれど「東京にいったん帰ったら、何日間経過していたとか、隠していた現実的なできごとがあからさまになってしまう」とも言いました。僕にとっては、それこそが狙いでした。東京に帰ったら数週間経っていて、一人は幽霊であるにもかかわらず、あきらかに二人が本当に旅をしているということを逆に示せると考えた。これは夢ではない。数週間経っていて植物は枯れている。郵便物は郵便受けにたまっている。そういった描写が必要でした。いまではそのような演出にして良かったと思っています。けれども、旅ものやロードムービーとしては、やってはいけないことをやってしまったなとも思います。

 

——病院で瑞希と朋子の対決シーンがあり、愛人の朋子がそこで圧倒的な勝利をおさめます。普通のロードムービーの快楽とは異なる感じがありますね。一方で、死者と生者が混ざり合いながら物語が進んでいくなかで、滝つぼのシーンやラストの浜辺のシーンなど、水の描写が印象的に使われています。特定の宗教観とは異なる、何か僕らの根底に流れる死生観のようなものに触れるようなシンボリックな場面ですよね。

 

黒沢 なぜこういったシーンが生まれたかと言うと、原作に描かれていたということが大きいです。滝の場面は原作からきています。滝はこれまで撮影したことがなく、楽しくはあったのですが、実際に撮影してみるとかなり大変な作業でした。もっとも大変なのは音です。ドドドドーっと予想以上にすごい音がして、同時録音の音声はまったく使えない。ですから、セリフはあとで別に録音しないといけなかった。つまり滝の前で二人が会話するというのは、小説としては成立しても現実には成立しえないものなのです。
 反対に、僕の映画では海が頻繁に出てきます。海が旅ものの代表的なモチーフと言って良いのかわかりませんが、ここから逃げ出そうとか、どこかに行こうと主人公たちが道路を進んで行くと、必ずと言って良いほど海にぶちあたる。それ以上は進めない。ヨーロッパのような大陸だと、もっと広いどこかに走って行って別の国へ行くというドラマになるでしょう。日本だと半日も走ると必ず海にあたって、そこから先に行けなくなるという現実がある。だから、そういった場で映画は終わる。あるいは、そこから引き返してくるという展開が僕の映画では多い。『岸辺の旅』でもあちこちに移動しますが、最終的には海にたどりつき、優介はどこか海のかなたに行ってしまい、まだ生きている瑞希はそこから引き返すところで終わる。海というのは向こうの世界への入口でもあるし、生きている人間にとってはここから先には行けない引き返すポイントになっています。

 

——『散歩する侵略者』(二〇一六年)の加瀬鳴海(長澤まさみ)と加瀬真治(松田龍平)夫婦のラストシーンもそうでした。車で逃避行をしていって崖に行きあたる。
宇宙人が真治に取り憑き、人間の概念を盗んでいたのですが、「愛」という人類ならではの概念だけは、どうにも不定形でなかなか盗むことができない。しかし、最後にはそれを手に入れて宇宙人=真治は圧倒されてしまう。『散歩する侵略者』では、夫婦はバスではなくて車で逃避行をします。カメラが自在に運転席と助手席の二人を移動しながら撮っています。

 

黒沢 そうですね。車の運転席と助手席に人が乗っていて、それを撮影するというのは映画ではよくある場面ですが、これを撮影するのは簡単ではありません。運転席と助手席を車内から撮影しようとすると、後部座席から撮るしかない。すると、人物の後頭部しか撮れない。その後頭部も最近の車のシートは立派で大きいから難しい。あとは斜めからすこしだけ横顔を撮ったり、ルームミラーに映った顔を撮ったりするくらい。近年では小さな車載カメラがあるので、それで撮るという選択肢もなくはないが、ほぼそれくらいです。一所懸命に撮ってもその程度しかできないのであれば、僕は車を実際には走らせずに、スタジオのなかに車を入れて、カメラを車の前のもっとも適切な場所に置くことにしました。背景には巨大なスクリーンを何枚か立て、そこに走っている車の景色の映像を映すことで、彼らがさも走っているかのように見せかける。これをスクリーン・プロセスと言います。そうすれば後部座席から撮ったり車載カメラで撮ったりするのと違い、運転席と助手席の二人の表情や微妙な関係をもっと適切なアングルで撮ることができます。

 

——『岸辺の旅』と『散歩する侵略者』における移動のシーンにおける撮影についてお話をうかがっていると、黒沢映画の「旅」がロードムービーのように、登場人物がそれまで抱えていた困難や葛藤から超出し、癒されていくというような、ロマン主義的なものでないことがわかります。

 

黒沢 日本列島の風土や風景からは、単純な「旅」がそもそも思いつけないという
こともあるのですが、その逆もまた考えられます。人間が移動していくのがそんなに難しいのであれば、移動させなければ良いじゃないかと。たとえば、家と会社だけで物語が進んでいく映画ですね。そういった映画はたくさんあるでしょう。あるいは、たった一カ所のみで展開していく映画もある。演劇ですと、あちらこちらに移動することができないので、二、三カ所、あるいは一カ所のみで展開されるドラマも多くあり、少ない場面設定でドラマを紡ぐというサンプルがたくさんあります。「だったら映画もそうすればいい」と思うでしょうが、場所がほとんど変わらない映画というのは、例外はありますが、つまらないことが多いと言えます。
 たまに演劇の中継をテレビでやっていますね。テレビで見ると、俳優は素晴らしい芝居をしていて、内容もとても素晴らしい舞台なのに、まったくもってつまらないことがある。なぜなのか。それは場所が変わらないからです。劇場しか映していないからです。僕にも理由はわかりませんが、どのようなドラマが起ころうと、ある一カ所のみを映し出している映画の映像に、観客はおそらく数分くらいしかたえられないでしょう。

 

——場面が転換すること、あるいは情景が展開することが映画という芸術にとって根源的な要素であるわけですね。
黒沢 数分したら、すこしでも場面や設定が変わっている、ということが映画には必要なのだと思いますね。

 

『旅のおわり世界のはじまり』のロケ撮影

 

——それでは、これまでの旅や移動に関するお話を踏まえて、『旅のおわり世界のはじまり』(二〇一九年)についてお話をうかがいたいと思います。日本とウズベキスタンの合作映画として、前田敦子さんを主演にむかえ、ウズベキスタンで一カ月間オールロケという、このとんでもない企画がどのような経緯で持ち上がってきたのかを教えてください。

 

黒沢 これも僕が一からやりたいと手を挙げたわけではなく、知り合いのプロデューサーがある日、「ウズベキスタンで、何か映画を撮りませんか」と仕事を依頼してくれたことからはじまります。その時点で、僕はウズベキスタンがどのような国なのかもよく知らなかった。ウズベキスタンと日本を行き来すると予算がかかるので、一回行ったら行ったきりで撮影を終えるのが良く、「それを前提に何か物語を考えてもらいたい」と言われました。わりとすぐに思いついたアイデアは、テレビレポーターを主人公にすることでした。ずばり「世界の果てまでイッテQ!」という番組のようなストーリーにすることでした。現地に入った数人の日本人テレビクルーが、ドタバタして番組を作る様子がドラマになるのではないかと考えた。バラエティ番組の撮影スタッフの物語ということで、まずはストーリーを考えはじめた。「そんないい加減な設定では困る」と言われたらどうしようと心配もありましたが、幸いプロデューサーは理解ある人で、助かりました。

 

——前田敦子さん扮するテレビレポーターの女性が、ウズベキスタンの湖に棲息するという珍しい魚を探すためにバラエティ番組に出演します。一方で、彼女は本当は歌手としてステージに立ちたいという葛藤を抱えている。東京に消防士をしている彼氏がいるらしく、海外にきてもスマホでやり取りばかりしている。そうしたなかで、低予算番組に特有の側面かもしれませんが、ディレクターや撮影陣には冷徹にあつかわれ、何とかがんばって撮影を進めていく。このプロットやシナリオは、前田敦子さんに当て書きしたと想像してしまうほど、ぴったりな内容に思われました。

 

黒沢 最初から前田さんありきではありませんでした。ウズベキスタン側の要求として、首都タシケントにあるナヴォイ劇場をどこかの場面で出してほしいというのが、一つの制約としてあった。そこで思いついたのが、じつは歌手を志望していた主人公のテレビレポーターがふとナヴォイ劇場に立ち寄り、スポットライトを浴びて歌う幻影を見るシーンが良いかなと思ったのです。これだとナヴォイ劇場をうまく使えるし、単なるレポーターではない主人公の人間としての複雑な面も描ける。そのときに、前田敦子さんが良いのではないかと思いついた。ですから自分のなかでは、ナヴォイ劇場をどのように扱うかという制約をヒントに、前田さんだったら歌ってくれるかもしれないと繋がったということですね。
 僕はこれまでも何度か前田さんと仕事をしています。彼女に対して抱く印象は「AKB48」のセンターとしての前田敦子というよりは、女優としての前田敦子でした。何年か前に『Seventh Code』(二〇一三年)という、彼女の新曲をプロモーションするための映画を撮ったのですが、実際に歌ってもらったらやはり良い。女優と思って歌ってもらったのですが、「やはりこの人は歌手なのだ」とあらためて認識しました。そのときから女優として考えていたが、とはいえ歌ってもらうと俄然魅力が増してくるという考えもあり、それで『旅のおわり世界のはじまり』でも「前田さんしかいない」と思ったのでしょう。

 

——ウズベキスタンで撮影とのことで、シナリオ・ハンティングやロケーション・ハンティングをなさったと思います。サマルカンド、アイダル湖、タシケント、タジキスタンとの国境に近いザーミンというロケ地は、どのようにして決まったのですか。

 

黒沢 僕が実際にウズベキスタンへ行く前に、制作スタッフが現地の人にいろいろと教えてもらいながら選んでいきました。僕が脚本をある程度仕上げていくのに合わせて、「こんな場所がいいな」「あんな場所がいいな」と思いつきを言うのですが、それに合わせてスタッフが現地に一か月くらい前に入って動いてくれた。参考のためにビデオ映像を見たり、さまざまな情報を得たりして考えていき、最終的に僕を含めたメインスタッフが現地に二週間ほど行って、ロケハンするという流れでした。
 けれど、この映画に協力してくれたウズベキスタンの観光庁が勧めてくれる場所は、必ずしも適していないだろうと覚悟していた(笑)。彼らは映画のプロではありませんからね。「サマルカンドで良い場所はないですか」と尋ねると、予想通り観光地として美しい場所を紹介してくれます。しかし、僕にとってはその裏側、つまり薄汚いところや人があまり寄りつかないところ、あるいはすこし危険なところがロケ地として都合が良い。そのようにあらためて提案すると、現地の担当者は「そんなところはありません」と顔をしかめる。それはそうでしょう。でも、そこからスタートして、根掘り葉掘り「観光地ではないところを見つけてほしい」と粘る。そうすると、やはり町の裏側の顔が出てくる。これはウズベキスタンにかかわらず、東京近郊で探すときもそのようにしています。
 あらかじめ断っておきますが、ウズベキスタンは汚く危険な国ではまったくありません。でも、それでは映画にならないので、本当はそれほど危険でもなく汚くもないのだけれど、この場所ならばそのように見えなくもないといったところを頑張って探しだした。主演の前田敦子さんが街中をうろうろして、慣れない風景や人びとに対してビクビクしながら足を踏み込んでいき、そのような状況で走って逃げるという設定だったので、風光明媚ではない雰囲気が必要でした。

 

——タシケントの市場で、前田敦子がディレクターから小さなビデオカメラを渡されて、「好きに撮ってみろ」と言われますね。あのシークエンスでは、前半部分はドキュメンタリーなのかと錯覚してしまうような生き生きした映像になっていて、後半に、彼女が市場の裏側に入って警察官に「撮ってはいけないものを撮っただろう」と言われる場面から、ガラッと様子が変わります。彼女がさまよう裏道では黒沢映画的な、不穏な空気をかもし出す照明も使われていました。

 

黒沢 あの場面では、実際におかしな照明があったのです。裏道の照明の灯りがどれも勝手にチグハグなものばかりをつけていて、古いものもあれば新しいものもあり、LEDがあれば裸電球もあるような状態だったので、あのような映像になりました。統一感のない照明をしていると、あのような色合いになる。そういったことも「たまたま」なんです。決して撮りたいと狙ったわけではないのですが、「こういったところもあったのか」と出遭ってしまったものだから、それを撮らざるをえない。これは映画作りにおける必然のように思います。僕らが作っている映画は、ハリウッド映画のように、すべて計画され、計算し尽くされたものとは異なります。背景が巨大スタジオのセットで作られたり、すべて精密なCGで彩られていたり、といった映画ではない。僕たちの映画は、現実の街や実際の場所をどのようにして撮るのかというところで勝負している。たまたまそこにあったものだろうと、それをできるだけうまく活かしていく。僕はそのことをいつも考えています。

 

——ゴダールではないですが、この作品は「撮影する行為そのものを撮影していく」映画とも言えます。テレビ番組を撮影するクルーを演じる俳優たちが、実際の映画の撮影隊に取り巻かれているという二重の状況がある。しかも、その撮影隊のなかには現地のウズベキスタン人も混ざっている。そういった意味でも、大変な現場だったのでないでしょうか。

 

黒沢 現場レベルの話で言えば、予想以上にうまくいったと思います。映画を製作する要素はどこの国でも一緒なのだ、と実感しましたね。言葉がうまく通じないということは基本としてありましたが、その不安は通訳の方々の頑張りによって解消されました。ウズベク語を話せる日本人は数えられるほどしかいなかったので、当初ははたして日本語を話せるウズベキスタン人などいるのか、と疑っていました。ところが多くの日本語話者がいて、あっという間に十数人が集まりました。彼らがあいだに入ってくれたので、撮影はじつにスムーズに進みました。映画を観た方はおわかりのように、テムル役のウズベキスタン人俳優であるアディズ・ラジャボフさんは、日本語を話せないどころか聞いたことすらなかった人でした。けれども、なんとひと月くらいで日本語のセリフを完璧に暗記し、あれだけカメラの前でしゃべってくれたのです。

 

——テムル役のアディズ・ラジャボフが、シベリアで抑留されていた日本人がタシケントの劇場建設に携わった、という長いセリフを感動的に話すシーンのことですね。もともと日本語が話せない俳優がやっていたというのには驚きます。

 

『旅のおわり世界のはじまり』の演出

 

——この映画の前半で、前田敦子が「これでもかこれでもか」というくらいに番組製作のためにディレクターにしごかれます。一見すると、出演者へのイジメのようにも見える場面は、やはり必要なシーンだったのでしょうね。
黒沢 イジメられるというよりも「大変な仕事を義務感を持ってやっている」といったほうが適切かもしれません。その仕事を終えてホテルに帰り、晩御飯の食料品を外に買いにでても、またそこで大変な目にあう。唯一の心の安らぎは、東京にいる彼氏とのLINEでのつながり。ところが、この映画のなかでは、その東京こそが大変な事態に陥っている。ウズベキスタンであろうと東京であろうと、等しく大変なときは大変な目にあう。そうした世界のなかで、みんなは日々日常を営んでいるということです。そうしたことが、物語が進むにつれて、ようやく彼女にも理解できてくるという構成になっています。

 

——染谷将太が演じるテレビディレクターの行動がリアルでした。あのようなディレクターは、テレビ業界にはたくさんいます。ヤラセだろうが力技だろうが、とにかく番組を「成立させる」ことだけを考えている人です。
黒沢 僕としては、特に人間性のあくどいディレクター像をかたち作ったつもりはありません。あれは、ある一人の人間の思いがそうさせているというより、番組がそれを要求していて、ディレクターはそれにあまりに忠実だということに過ぎないのでしょう。良くも悪くも、典型的なディレクター像になったとは思いますが。

 

——染谷さんはインタビューのなかで、役作りのために、黒沢監督の現場での身振りや雰囲気を模倣したと言っていますね(笑)

 

黒沢 それは心外ですね(笑)。僕自身が現場でどのように振る舞っているのかは、客観的にはわかりません。ひょっとして僕にもそういった意識があるのかもしれない。いま一本の映画を撮っている。そのために、いま自分は監督をしている。この映画をより良いものとして完成させるために自分はどうあるべきなのか。こういったことを前提に、撮影現場では振る舞っているつもりです。だから、自分の単なるわがままや趣味だけで無茶なことを要求するつもりはない。「僕があなたにやらせているのではない、映画があなたに要求しているのです」ということです。これでは都合が良すぎる解釈でしょうか(笑)。

 

——あくまでも主語は「私が」ではなく、「映画が」なのですね(笑)。インターネットに広告を奪われている影響もあり、既存のテレビ業界の予算はどんどん削られています。しかし、変わらず視聴率は求められつづける現状のなかで、撮影現場が過酷になる状態が、ある種の日常になっているのかもしれません。ところで、この映画はロードムービーでありながら、同時にミュージカル映画でもあります。これは黒沢監督のフィルモグラフィのなかでも特異な作品なのではないでしょうか。

 

黒沢 僕のなかでは『旅のおわり世界のはじまり』において二回、前田敦子さんが歌うシーンは、厳密な意味では「ミュージカル」だと認識していません。一つは、夢のなかでの場面ですね。ここで前田さんは劇場のなかでオーケストラの演奏をバックに歌います。もう一つのシーンは、オーケストラはどこにもいないにもかかわらず、オフスクリーンで曲が流れてくる。ふつう映画を観ていて音楽が流れてきたら、それはサウンドトラックですよね。観客には聞こえているけれども、劇中の登場人物には聞こえているはずがない音楽。そうだと思っていたら、それに合わせて劇中の人物が歌いはじめる。そこで観客は「なんだ、劇中の人にも聴こえているのか」とわかる。その一体感がなんとも好きなのです。なぜ好きなのかはうまく説明できませんが、このことを自分なりに無理やり一言で説明すると「唐突な劇場化」ということなのです。
 これは演劇では当たり前のことですね。劇場に音楽が流れれば、観客にも舞台俳優にも聴こえる。だから、それに合わせて歌いはじめるのは何ら不思議ではない。向こう側とこちら側は常に一体になっている。しかし、映画では「そんなことが起こるはずはない」と観客は高をくくっています。でも「ときにはおこりますよ、向こう側と一体化しますよ」ということが、音楽の扱い方によっては起こりうる。歌うはずがないと思っていた出演者が、徐々に身体を揺らしはじめ、いつしか歌いはじめる。衝撃とまでは言いませんが、ある種の動揺や感動を味わってもらいたかったのです。
 これをミュージカルと呼んで良いのかどうか、僕にはわからない。僕のなかでのミュージカルのルールだと、まず踊りはじめるのです。場合によっては、音楽に合わせて映像が編集される。こうなるとハリウッドのミュージカルや音楽のプロモーションビデオに近づいていく。それはそれで素晴らしい見世物だとは思うが、僕が思う演劇的な一体感とはすこし異なる。そこでは、何か珍しいダンスやショーを見る体験を観客はする。そうなると、それなりにダンスがうまく、かつ豪華でなければ観客は満足してくれない。『旅のおわり世界のはじまり』では、そこまではやっていません。身体をすこし揺らしたりはするが、ダンスまではしない。だから、ミュージカルにはなっていない。ミュージカルになる前の段階の「何か」をやっているということです。

 

——映画のラストで、エディット・ピアフの「愛の讃歌」が歌われますが、あそこが同時録音で撮影されているとは思いもよりませんでした。ワンカットの長回しでドリー(台車)で移動したあと、最後はカメラがクレーンで上昇します。山上でどのように撮影をしたのかをお聞きしたいのですが。

 

黒沢 あの場面は、かなり無理を言って撮影させてもらいました。撮影した場所は、ウズベキスタン人でも行ったことがないような山奥で、道路からもかなりの急斜面を二〇分ほど上がったところです。そこに小型のクレーンや移動車などを運び込みました。前田敦子さんには「あの場所で実際に歌ってもらいたい」と思っていた。通常、音楽に合わせて歌うシーンは、あらかじめスタジオで歌を録音しておき、それをその場で流しながら、その歌をさも歌っているかのように口パクをして演技してもらいながら撮ります。だけど、僕はそれをやるのが嫌だった。「愛の讃歌」という曲は、伴奏がつくとはいえ、どうしても歌が先行する曲なので、伴奏に合わせて歌うことができない。ですから、前田さんの耳にイヤホンを仕込み、カメラの後ろに控えた音楽担当の林祐介さんが弾くキーボードの音を、そのイヤホンに無線で流した。歌に合わせて林さんがキーボードを弾き、その演奏を聴きながら前田さんが歌うかたちで撮影を進めた。最後に、前田さんが自分のペースで歌った歌にオーケストラを合わせていった。これがまた大変な作業でした。前田さんの歌を聴きながらテンポを合わせなくてはならないので、オーケストラの指揮者も苦労したと思います。
 このように手の込んだ方法で撮影したので、前田敦子さんには最初から最後まで切れ目なく一曲歌い通してもらいました。これが大変でした。東京にいるときにかなり練習をしたようですが、実際の撮影場所は高地なので酸素が薄かった。「愛の讃歌」は最後に山場があり、東京にいるときと同じペースで歌うと体力がつづかない。どういう配分で歌えば最後のところで盛り上げて歌えるのか。ここには苦労して、何度も何度もやってもらいました。前田さんもかなり追い込まれていましたね。僕にはやれることがないので「頑張って」と祈っていた(笑)。最後まで見事に歌い切ることがテーマだったので、途中で何度も「もうダメだ」と思ったけれど、何とか撮り終えることができましたね。

 

——俳優にとって大変困難なことを、「映画」が要求するままに監督は準備し、要求するということですね。

 

黒沢 この場面は大変な撮影になるだろうと、スタッフも前々から認識していたし、前田さんも覚悟して臨んでくださったので、乗り越えられたのだと思います。実際に大変でしたが、最終的にはみなさんが満足できるものに仕上がったと思います。観客の方にも前田さんの頑張りはある程度伝わるだろうと信じています。

 

——一本の旅の映画がどのように作られていくのか、そのバックグランドがよくわかりました。

 

質疑応答

 

学生1 本日はお話をありがとうございました。世の中にはさまざまなジャンルの数多くの芸術作品があるなかで、自分の作品がどうしても既存の作品と似てしまうことがあると思います。そうしたなかで、自分なりのオリジナリティを保つためのアイデアや考え方はありますでしょうか。

 

黒沢 僕の若い頃はまったく逆の考え方をしてましたね。「これはすごいな」と思う過去の名作、あるいは大好きな作品をできるだけ真似るようにしていた。それとそっくりであったならどれほど良いか、と。これが僕の映画人生のスタートです。最初から自分のオリジナリティなんてものは、まったく考えませんでしたね。あの素晴らしい大傑作と同じものを作るにはどのようにしたら良いのかと考え、自分なりに作品を作るが、それが全然できない。何度やってもできない。その「できない」を何十年もつづけて、いまに至っています。
 なぜできないのか?いつまで経っても実現できないので辞めてしまうという人生もあります。僕は幸いなことに、自分が憧れる素晴らしい作品を真似しながら撮りつづけることができました。僕に褒められるところがあるとすれば、それくらいでしょうか。撮りつづけたものはいつしかその人の個性としか言いようのないものになっていく。自分からするとその個性は、ただ素晴らしい作品の真似に失敗しつづけた結果の数々にすぎない。「できない」ということこそが、おそらく個性なのです。真似から入るしか入りようがない。真似したくても真似られないまま作品を作りつづけると、いつしか評論家の方々が個性を指摘してくれます。僕からすればそれは癖のようなものです。それは周りが見つけてくれるもので、自分では決してわからないものです。

 

学生2 先ほどミュージカルや演劇についてお話しされていたのですが、観ている側と映画の交わる瞬間というのは、『旅のおわり世界のはじまり』を観ていてすごく感じました。それに関連して、今回の映画において「窓」の扱い方が気になったのですが、お考えを聞かせていただけないでしょうか。

 

黒沢 この作品に限らず、僕の映画にはたびたび窓や扉がよく出てきます。どなたも想像がつくような当たり前のことですが、窓というのは室内から外につながる場所です。室内で物語が進行していきつつも、「いや、外もありますよ」と言うように、パンッと窓が開いて風が入ってくる。あるいは、スーッとカメラが窓のほうに向くと外に何かが映っている。「外はこうなっていたのだ」ということがわかるだけで、映画というのはなぜか「次に何かが起きるだろう」という期待を抱かせる。室内でなにか停滞しているようなときも、窓から風が吹き込んできただけで、それまでの退屈が一気に吹き飛ぶこともある。窓はそういった外とのつながりを直接あらわす、映画にとってすごく興味深い素材なのです。
 これはすごく映画的な現象です。演劇では起こらないと思います。窓から風を入れるという表現はできたとしても、「外という現実」を実感させるまでには至らないでしょう。小説においても書くことはできるが、映画ほどの効果はない。アニメーションでこのような表現は可能なのかしら。宮崎駿さんも風をものすごく熱心に表現しています。たしかにパッと窓を開けて、ワァーと風が入ってきてカーテンが揺れるという表現をアニメでも見ますが、実写ほどの効果はないのではないか。実写映画においては窓の先にはあきらかに外がある。窓の外に突然に何かが現れるというのは、実写による映像が得意とする表現だと思っています。

 

一般聴講者 映画では、ウズベキスタンの裏町を前田さんがビクビクして歩くシーンが印象的でした。その後で前田さんが警察に保護されて、係官がしゃべる言葉がある。そこに黒沢監督の思いがこめられているように感じました。係官は前田さんに対して「あなたたちはわれわれのことを知らないのではないか。だから怖がっているのですよ」という素晴らしいセリフがありましたね。

 

黒沢 いかにも係官の言葉は、この作品の大きなテーマですね。この映画は「ウズベキスタンはこれほど素晴らしい国ですよ」「こんなに美しいところがあるのですよ」と紹介する映画ではありません。そういうことを期待している方は「何だ、この映画は」と思うかもしれません。しかしながら、一つ撮る前から決めていたし、絶対にそうであろうと思っていたのは、「ウズベキスタンはこんなに美しい国ですよ」というのは情報として重要だけれど、現代ではインターネットやテレビなどのメディアから、いくらでも手に入ります。
 映画に託され、必要とされているのは情報ではなく、「彼らも僕らと同じですよ」ということ示すことなのです。ウズベキスタンにもこんなに複雑な側面があるとか、ウズベキスタン人も日本人と同じようにお金にシビアだとか、やはり貧富の差は歴然とあるといった、僕らと同じような問題を抱えていることを見せるのが映画の使命だと考えます。フランスだって、アメリカだって、もちろんウズベキスタンだって一緒です。日本がさまざまな問題を抱えているように、他の国々の人々も等しく同じような課題にぶち当たっている。こうしたことはテレビではあまり取り上げられない。「彼らもまた同じなのだ」ということを知らせるのが、映画の一つの大きな使命なのではないでしょうか。(終)

 

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