【活動報告】映画プロデューサー市山尚三の仕事

【活動報告】映画プロデューサー市山尚三の仕事

2019年7月5日(金)多摩美術大学八王子キャンパス、メディアセンター1Fメディアルームにて、映画プロデューサー市山尚三さんをお呼びして、トークイベントを行いました。

 

市山尚三さんは、1963年生まれの映画プロデューサー。
松竹時代の代表作に『その男、凶暴につき』(1989)『無能の人』(1991)がある。オフィス北野所属後は、中国の監督を中心にプロデュースを行う。ホウ・シャオシェンの『フラワーズ・オブ・シャンハイ』や、ジャ・ジャンンクーの『プラットホーム』『青の稲妻』『世界』などの製作に携わり、中国語圏の巨匠たちを支えた。
東京国際映画祭の作品選定委員を経て、東京フィルメックスを主催。現在は、木下グループのもと、株式会社kino internationalにて代表取締役社長を務め、2019年第37回川喜多賞を受賞した。

今回は、そんな市山尚三さんに、ずばり、映画プロデューサーとはどんな仕事なのかを市山さんの経歴を追う形で収録。
映画史に残るような事件から市山さんの具体的な体験にまで切りこんだ、90分に及ぶロングインタビューです。

 

〜偶然から映画業界へ〜

 

市山さんは、山口県から、東京大学経済学部に入学されたと同時に上京し、卒業後に松竹に入社されたとの事ですが、元々映画に興味があって入社されたんですか?

 

実は最初、映画会社に入る気もなく、映画を仕事にするつもりも全くなかったんですよ。大学の頃から映画は好きで見てましたけど、別に映画研究会に入っていたというわけでもなく、友達と見た映画について、あれが面白かったね、などと話す程度でした。
もちろん映画研究会は大学にあったんですが、どちらかというと作ることを中心に活動している方達ばかりで、僕はあまり映画を作ろうという意思はなかったので、そこには入りませんでした。ただ年間何百本くらい映画は見てましたね。時間があったので(笑)
やることも無く映画を見ていただけなので単なる映画好きに過ぎなかったんですが、たまたま電車で向かいの人が読んでるスポーツ紙に大島渚監督か誰かの写真と一緒に「来たれ松竹へ」というようなことが書いてあったのを見たんです。
なんだこれはと思い、その新聞を買って読んでみたら、松竹が10数年ぶりに助監督を公募するという記事でした。
それを見て、応募することを決めるわけですが、日本の映画業界では、70年代が撮影所の非常に厳しい時期で、例えば大映が倒産したり、日活はロマンポルノしか作らないという方針転換を行ったりしていて、松竹、東宝、東映の3社が映画を作っていたんですが、東宝は完全に撮影所を分社化し、多くの社員をリストラしてしまって、社員はプロデューサーしかいないような状況になってました。
僕がその新聞を見たのが1986年頃の事なんですが、その頃もそうした影響から、映画撮影所システムがどんどん崩壊し、人も少なくなってきていたこともあり、それまで松竹も助監督を10何年採用してこなかったんです。
松竹、東映はその頃でも撮影所を持ち、スタッフもいたんですが、人づてに新しく入る人は何人かいたとしても、新規採用はほとんどせずに、高齢化が進んでしまっていているような状態でした。
そんな時に突然社員助監督公募を行ったのはかなり大きなニュースで、入社試験にもカメラが入っていました。その時ちょうど僕が面接を受けているところがNHKで放映されて、故郷で流れてみんなが驚いたっていうことがあったみたいですね。
確かにテレビカメラが後ろから撮っていたことは知っていたんですが(笑)
なので、松竹が社員助監督公募を行ったということはNHKの全国ネットのニュースで放送されたくらいの騒ぎでした。
後でこれは入社してからわかった笑い話なんですけど、この公募は1年限りで、この年以降行われなかったんです。
というのも、『キネマの天地』(1986)という山田洋次監督の映画があり、中井貴一さんがサイレント映画の撮影所の助監督をやっているという設定の作品だったのですが、実はこの助監督応募はまさにこの映画にかけた宣伝キャンペーンの一環だったんです。
要するに、松竹は自社製作を強化してガンガン作りましょう!というつもりだったわけではなく、1年限りのイベントとして募集しただけだった。
しかし、ある意味すごい偶然で、その事がなかったら多分映画界には入ってないと思います。しかも、最後の面接は凄かったですよ。 山田洋次監督と野村芳太郎監督が面接官でしたから。

 

すごい面々ですね!

 

はい。これは一生誇れると思いました。
そんな入社試験だったので思い出として受けて面白かったなと思っていたんですが、一般教養の筆記試験の他に脚本試験があったんです。それは脚本もしくは小説の形でもいいからとにかく1時間半くらいの間に何か書けというものがあって、「指輪」という題名だけが与えられていました。
松竹は助監督も脚本を書けなければいけないという撮影所の伝統があったので、その執筆力を見るという意味での試験だったと思います。当然僕は脚本を書いたことなんてないので、自分でもこれは酷いと思うようなものをなんとか書いて提出したので、採用されるわけがないと思っていました。
ところが後日、なんと松竹から連絡があったんです。
そこで言われたのが、助監督の採用枠は3つしかなく、基本的には筆記試験の一般教養科目よりも脚本試験の結果を重視するため、あなたは脚本試験で3位以内には入っていないので助監督としての採用は出来ない。けれども一般社員として松竹に来ないか、というお話でした。
その時、一般社員にはどんな仕事があるか聞いたところ、映画のプロデューサーや宣伝担当や劇場勤務など色々ありますと言われました。僕は全く知らなかったんですが、助監督採用は10数年ぶりでも一般採用はずっと行っていたそうなんですね。
そこで僕は、プロデューサーになれる可能性があるんだったら入りますと、とりあえず答えました。それが発端だったんです。すごくいい加減な話なんですが、その頃はプロデューサーが何をする人かも知りませんでした。もちろん映画業界についても何も知りませんでしたし。
映画の中でプロデューサーを見ることはありますよね。例えばジャン=リュック・ゴダールの『軽蔑』でジャック・パランスが演じている剛腕プロデューサー、またヴィム・ヴェンダースの『ことの次第』ではプロデューサーがマフィアに借金をして追われてトレーラーで逃げ回ってるとか。
あまりポジティブじゃない役ですね(笑)
ただ、プロデューサーというのは現場である種の能力を持って映画を作っている中の1人なんだな。というイメージはあったので、映画製作の裏側を見ることができるのはそれはそれで面白いかなと思いました。
その時はバブルの絶頂期で、入って2、3年勤めて面白くなかったら辞めてもどこか働き口はあるだろうと、非常にいい加減な感覚で松竹に入りました。

今とは180度違うのですが、当時は今みたいに邦画が大ヒットすることはあまり考えられず、世の中は完全に洋画中心でしたね。
邦画の観客というとおじさんおばさんばかりで若い人は邦画なんか見たくないというような時代でした。寅さんだけは売れていたんですが、それも高齢者しか観に行かず、爆発的なヒットは稀だったんです。
なので、松竹に入っても、撮影所も人が高齢化してきており、いずれ閉鎖されるんだろうなという雰囲気でした。しかも僕は最初映画製作部ではなく、丸の内ピカデリーという有楽町マリオンの映画館に配属されて、劇場で人の整理をやったりしていたので、プロデューサーでも何でもなかったんです。

 

〜プロデューサーへの入り口〜

 

僕がプロデューサーになったきっかけとなったのが、奥山和由さんという映画プロデューサーとの出会いでした。
今は吉本興業をベースに活動している方で、その奥山さんが二・二六事件をモデルにした映画を製作することになしました。
ただ奥山さんは、その時は大船撮影所には所属せず、ほとんど一人で映画を作っていました。今はもうありませんが、松竹富士という松竹系の洋画配給会社の中に一人で映画製作部を作って、『ハチ公物語』(1987)を大ヒットさせることに成功しました。それで念願だった二・二六事件をオールスターキャストで映画化することになったんですが、アシスタントがいない。入社して2年目くらいでプロデューサーをやりたいと言っていたやつがいることを知って、僕に松竹富士に異動しないかという話がきたんです。だから本当に口からでまかせで言ったことが偶然作用してるというか……

 

それがプロデューサー補ということですか?

 

そうですね。これが結果的にすごくラッキーだったのが、松竹で本来プロデューサーになるのはそう簡単なことではなく、大船撮影所にプロデューサー枠があって定員が決まっていて、定員いっぱいの状態ではプロデューサーになりたいと言っても配属されないんです。誰かが辞めるなり昇進しない限りは新しくプロデューサーになれないという状況だったので、僕がもし大船のプロデューサーになろうとしても枠がいっぱいでなれなかったと思います。
そんな中、奥山さんからお声がけ頂いて、しかも当時奥山さんの下に誰もいなかったので、いきなり僕はプロデューサー補として奥山さんのすぐ下のプロデューサーになれました。
当時、奥山さんは幾つもの企画を同時に進めていたので、とても忙しく、打ち合わせ等に出られないので、五社英雄監督と『仁義なき戦い』(1973)等を担当された脚本家の笠原和夫さんが打ち合わせをするとなった時は僕が行ってたんですよ。奥山さんは時々来て様子を見て帰っていくだけなので、結局ずっと僕がいました。

 

ではプロデューサー補といいつつも実質的なプロデューサーだったんですね。

 

実質的なプロデューサーとは言えませんが、奥山さんの代理として脚本の打ち合わせに延々と参加していました。僕は制作の経験も無しにそんなところに放り込まれたので、最初はただ素朴に思ってることを言うだけでした。よく知らないので逆に出来たのかもしれませんね。若手の監督で肩慣らしをしてからと言うのではなく、いきなり大作のプロデューサー補で、しかも2大巨匠と打ち合わせをするという……。さらに2人の意見が全然合わなかったので本当に困りましたね。食事なんかも何故か別々に食べていたので。その間に入って右往左往しながら打ち合わせをしていました。
その後に出会ったのが、『その男、凶暴につき』という北野武監督のデビュー作です。

 

『226』(1989)と同年ですよね?

 

そうなんです。だから、脚本作業も並行して行っていました。しかも、そっちの脚本作業は、まだ北野さんが監督になる前で、深作欣二監督だったんですよ。あと、野沢尚さんという脚本家。このお2人が打ち合わせするのにも僕がやっぱり一緒に入っていました。今は無くなりましたけど、昔、東銀座の松竹本社の近くにあった銀座東急ホテルに24時間営業の喫茶店がありました。そこで夕方から始まって徹夜で打ち合わせをしていましたね。僕と野沢さんが眠ってしまって、それを意に介さず深作さんが1人で喋ってるということもありました(笑)

 

ではプロデューサーとしての初めての仕事はその2作品ということですね。

 

そうですね。順番から行くと『226』の方が先ですね。『その男、凶暴につき』に関しては、有名な話ですが北野さんのスケジュールが思ったようにとれないことで深作さんが監督から降りてしまい、瓢箪から駒で北野さんが監督をすることになったんです。それはもちろん奥山さんが決めたことですけど、そういった一件を目の当たりにしながらやっていました。
『226』を担当していた時も、当然面白かったんですが、やっぱり『その男、凶暴につき』をやっていた時にこんな凄いことが映画にはあるのかと思いましたね。
映画を撮るつもりもなかった人が、土壇場の苦肉の策で監督をすることになった。初めのオールスタッフ打ち合わせで北野さんが「映画について全く分かりませんからみなさん教えてください」と言われたことが印象に残っています。そこから撮っているうちに、どんどん自分のスタイルが出来ていきました。

 

周りの制作陣は北野さんについて行くという雰囲気だったんですか?

 

そうです。やっぱり北野さんの人を動かす力というか。
北野さんがもしも自分の知名度を笠に着るような態度だったら、みんなついて行かなかったと思うんですが、最初のオールスタッフ打ち合わせで「何も知らないので……」と周りを立てた態度だったので、みんな北野さんのためになんとかしようと思いますよね。しかも、実際はなにも分からないことはなく、色々なことを知っている。凄い人だと思いました。
最初はカメラマンと撮り方や構図で議論したりしていましたが、途中から完全に自分のスタイルを作り上げていく様子を僕は横から見ていたんです。その時に映画の面白さに気づいてこの仕事を続けていこうと思いました。

 

〜映画プロデューサーの仕事とは〜

 

では、映画プロデューサーの仕事と言われてもあまり具体的な内容までまだ把握しずらい方もいるかと思いますので、詳しく教えていただけますか?

 

はい。最初は僕自身も知らなかったので(笑)。
まず基本的には、映画の最初から最後まで責任を持って取り組んでいるのがプロデューサーです。色々なタイプのプロデューサーがいるんですが、例えば自分で1から企画を立てて脚本家に脚本を依頼し、監督を選ぶというタイプの人。奥山さんがそうだったんですが、『226』の場合は自分で二・二六事件をやりたいと企画を立て、笠原さんに脚本をお願いします。監督は五社さんにお願いします。という風に全体の司令塔となって全てをセッティングしていく。宣伝も実務は宣伝部の人が行うんですが、プロデューサーも宣伝会議に参加して意見し、場合によっては劇場のブッキングまで行うという総合的なプロデューサーです。
ただ、そうでない人もいます。
僕がそうなんですが、自分で企画を立てないで、面白い企画を持っている監督から頼まれると、それを引き受けるというような監督ありきのタイプです。プロデュースすることを引き受けた後は脚本作業に入り、出資者を募りに回ります。
後の流れは前者と一緒なんですが、発端を自分で1から始めないと気がすまない人もいれば、僕のように仕事をしたい人の企画を尊重してプロデュースするという人もいます。この2種類だけでなくその中間の人もいるんですが、僕はどちらかというと自分で企画を立てて全てを管理するというよりは、自分の好きな監督や面白い企画に出会った時にそれをプロデュースする形でやっています。
基本的には監督の意向は尊重しますが、やはり予算などの問題で出来ないことがある時には、プロデューサーとして監督を説得し、他の手立てを考えなければならないこともあります。
また、出資者には最低でも資金を返さなければいけないので、ある程度観客の立場に立って「ここまでやると観客はついてこれないですよ」という事を脚本の段階で意見したり、あるいは「このシーンが無いと繋がらないのでここは絶対に入れるべき」ということを編集の段階で意見するなど、映画が世に出ていった後にどうなるかを想像しつつプロデュースしていきます。
もちろん失敗することも多々あります。ホウ・シャオシェン監督の『好男好女』(1995)は、これくらい説明すれば分かるだろう、と自分では思っていたのですが、完成後、色々な人から複雑すぎてよく分からなかったと言われ、反省しました。
監督は作品を作り上げることばかりに頭が行ってしまい、観客のことを忘れてしまうことがあるので、それを軌道修正してあげるのがプロデューサーの役割だと思います。

 

では全体の統括という面も持ちつつ、脚本自体にも関わり制作をするんですね。

 

そうですね。あとはプロデューサーの他にラインプロデューサーという人がクレジットに入っていることがあると思うんですが、これは企画段階というよりは、撮影現場を予算面、スケジュール面で統括する人です。
人によってはメインのプロデューサーもラインプロデューサーもできるという人もいるんですが、僕はラインプロデューサーは出来ないというか得意じゃないので、いつも信頼できるラインプロデューサーの方に予算組みやスケジュール管理をお願いしています。

 

じゃあ一重にプロデューサーと言っても十人十色なんですね。

 

今、僕は東京芸術大学でプロデューサー領域の非常勤講師をしているんですが、生徒たちは明らかに2パターンに分けられます。
現場が大好きで明らかにラインプロデューサーの仕事が合っている人もいれば、現場が苦手でラインプロデューサーには向かないが、企画を考える力や脚本を開発する力は抜群に持っている人もいます。これは向き不向きの問題です。たまにどちらの仕事もこなせる人もいます。
低予算の自主映画ではメインプロデューサーもラインプロデューサーも同じ人がやることはありますが、やはり商業映画になってくると職種は別になると思います。

 

なるほど。大体のプロデューサーという仕事がわかった気がします。

 

はい。なので、どっちのプロデューサーになるのか決めた方が良い場合もありますし、ラインプロデューサーとしての実力が優れているからといってその人が企画を立てるのも上手いとは限らないです。
例えばオフィス北野に北野組のラインプロデューサーをずっと務めていた方がいました。その方は、現場が好きでずっと現場にいたいので、絶対にメインのプロデューサーはやらないという方でした。
また、人によって、若い頃はラインプロデューサーとして活動し、歳をとるにつれて企画を自分で立てるプロデューサーに立場を変えるという人もいます。昇格したから変わるなどという理由ではなく、あくまで職種が異なるということです。

 

〜松竹でのプロデューサー経験〜

 

市山さんは『その男、凶暴につき』の2年後に竹中直人監督による『無能の人』のプロデュースをなさっています。竹中直人さんは多摩美出身なので繋がりがあるかと思います。この作品自体も多摩川が舞台ですよね。

 

この映画の経緯は、元々竹中直人さんが『226』に青年将校役として出演されていて、その時に竹中さんが奥山さんに映画を監督したいと言ったことから始まっています。多摩美でも自主映画を撮っていたのですが、監督になる手段がわからず、そのうちに俳優として人気が出てしまった、ということでした、。
それで奥山さんが僕にこの話を振ったんです。竹中さんが監督をしたいと言っているが、自分は忙しくてプロデュースできない。代わりにプロデューサーをやってくれと言われました。
竹中さんは実際にお会いしてみると、とても真剣に映画のことを考えている人でした。テレビでコントとかをやっているイメージが強いですが、すごく真面目な人だなということがわかったんです。
しかも竹中さんは映画を沢山見ていて、好きな映画についての話も合ったので、これは楽しそうだな、と思って引き受けることにしました。
最初はオリジナル脚本の映画を撮りたいと竹中さんが言っていたため、色々な人にプロットを書いてもらったんですが、中々竹中さんのイメージと合うプロットができなかったり、どうみてもお金が集まらないようなものになったりしました。
その後1年くらい進んでいなかったのを見兼ねた奥山さんが、もうこの企画やめたら?と言い出したので、もうオリジナルは諦めて原作物で映画化したい作品はないですか?と竹中さんに聞いたところ、それなら、つげ義春さんがいいと。

 

漫画原作ですね。

 

そうです。竹中さんはつげ義春さんをとても尊敬していたので、簡単に原作権なんて貰えないだろうと思っていたのですが、意外と簡単に貰えました。それまでつげ作品は映画化されていなかったのですが、つげさんがすごい人すぎてみんな今まで遠慮してしまっていたのかもしれません。、
みなさんはつげさん知りませんよね。僕よりも少し上の世代の人達がメインの世代の伝説のコミック作家です。
つげさんは内容もおまかせで好きなようにやってください、ということでした。映画が完成したら見に行くけれど、それまで自由に作ってくれて構わないと。

 

この時の出演者が、井上陽水さん岩松了さんいとうせいこうさんなど面白い面々となっていますがこのキャスティングはどなた決められたんですか?

 

このキャスティングは竹中さんです。岩松さんは舞台でよく共演していたし、いとうせいこうさんは若い頃からの友達だそうですよ。
ギャラもお車代程度で、竹中さんの監督デビューを祝ってください、といった感じでした。

 

プロデューサーという立場でキャスティングに関わることはあるのですか?

 

それはありますね。通常はキャスティング担当という人がいてキャストを推薦してくるんですが、映画によってキャスティング担当がいない場合はプロデューサーがやらなきゃいけないんです。
また、メインのキャストに関してはプロデューサーが打診します。脇役の打診はキャスティング担当が行い、場合によってはオーディションを開催も行います。でもメインの何人かはプロデューサーが連絡し、直接ギャラの交渉をするので結構大変な仕事です。キャスティングにもプロデューサーは大いに関わりますが、プロデューサーがキャストを独自に決定するというよりは、監督と話し合って決めていきます。
ただ、プロデューサーの中には、監督の意向を全く聞かず、全てキャストを決めてしまうという人もいます。その場合、監督と意見が合わなくてキャスト降板なんてこともありますが。
僕のようなタイプのプロデューサーは、基本的には監督と話し合いで決めます。もちろん、より良いキャストがいると思った場合、提案することもあります。

 

〜アジアの巨匠達との出逢い〜

 

では、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)との出会いについて聞きたいのですが。侯孝賢をプロデュースしたのは1995年の『好男好女』が最初ですよね。出会いについてお聞かせください。

 

『無能の人』が完成した頃、奥山さんはその後の功績で松竹に重役として復帰したので、本来洋画配給会社であった松竹富士の映画製作部は廃止になりました。
僕も松竹に戻ることになったのですが、松竹のプロデューサー枠問題で、版権営業部という部署の所属になりました。
『無能の人』の宣伝などやることはあったのですが、会社の上層部は、こいつ暇だなと、会社的には映画が完成したらプロデューサーは暇だろ、という感じで、東京国際映画祭を手伝えたという話になったんです。
東京国際映画祭は今は各部門にプログラムディレクターがいますが、当時はそういうことはなく、東宝、東映、大映、日活など、色々な映画会社の人が出向して運営されていました。
その時、松竹だけは誰も出してない、ということがあり、ちょうど『無能の人』が終わって、行く部署がなくて暇な人間がいると。それで僕が東京国際映画祭を手伝うことになりました。
1991年のことです。アジア秀作映画週間という部門があったのですが、あまり観客も入らず、お荷物みたいになっていました。僕が加わった時には既に上映作品は決まっており、現場の運営を担当してほしいということでした。
その当時は、色々なアジアの国の政府機関から推薦があった作品から10本を選んでいたので、他にもっと凄い映画があっても上映できませんでした。政府推薦作品だからお行儀の良い作品が多くて、中にはたまたま傑作もあるのですが、どちらかというと穏健な映画が多かったですね。

 

当時だと検閲とかはあったのですか?

 

当時も今も検閲はあるので、当然その国の検閲に通っていない映画は応募されて来ないですし、検閲に通ったものでも、政治問題を扱った映画は中々こないですね。無難な児童映画的なものですとか、社会問題に関係ないものが来る。悪い映画とは言わないまでも、地味な部門になってしまって、観客もあまり入っていませんでした。
しかも、プログラミングというものが存在していません。誰かプログラマーがいて主体的に選んでる部門ではなかったんです。
アジアにはもっと面白い作品があるから、ちゃんと選んだ方がいいのでは、と言ったところ、選考委員として出向してほしいということになったんです。
元々僕も社内に居場所がないんで、松竹としてもいいですよ、ということになり、1992年から正式に東京国際映画祭に出向することになったんです。
1993年に侯孝賢の『戯夢人生』(1993)という映画をアジア秀作映画週間のオープニング選びました。それが侯孝賢との出会いです。翌年、侯孝賢の事務所から突然連絡がありました。
侯孝賢は『好男好女』という新作を準備しており、3ヶ月後に撮影する予定でスタッフやキャストを集めていたのですが、1億円を出資することになっていた会社から突然キャンセルされてしまったという内容でした。
さらに悪いことに、台湾では『戯夢人生』が当たらなかったため、すぐにお金を出してくれる会社が見つけられない。そこで、『悲情城市』(1989)も『戯夢人生』もヒットした日本でなら出してくれる人がいるかもしれないということでした。それは松竹に出資してほしいということではなく、僕にどこか日本の出資者を探してほしいということで連絡が来たんです。
どこかに当たる前に、とりあえず自分の会社に聞いてみようと、松竹の映画部門のトップになっていた奥山和由さんに、「侯孝賢が製作費に困っています」と話したら、すぐに「じゃあやろうよ!」という話になりました。
実はこれには裏話があって、その時松竹がゼネコンを始めとする多くの企業から資金を集めて、50億の映画ファンドを組織していました。日本映画は当たらない時代だったので、外国との共同製作にのみ使えるファンドということになっていました。
そのファンドの企画の一つということで即決で決まったのが、『好男好女』だったんです。
『好男好女』の脚本とキャスティングはもうすでにできていたので、この時の僕はあまり多くのことをやっていません。編集作業に立ち会ったのと、カンヌ映画祭にエントリーする作業を行ったぐらいです。それが始まりなんですね。本当に偶然です。その後、侯孝賢から次もやりましょうということで、3作品プロデュースすることになりました。

 

侯孝賢の三作品をプロデュースした後に、松竹を退社してオフィス北野の子会社であるティー・マークへ移られたと思うのですが、ティー・マークについてお聞きしたいです。

 

まず、何があったか説明しますと、侯孝賢の『フラワーズ・オブ・シャンハイ』(1998)の撮影中に松竹で奥山社長と奥山和由さんが取締役会で解任されるという事件がありました。
当時の松竹はかなり赤字が堆積している状況だったようです。経営危機を感じた人たちが連合して解任したということだと思います。
当時私は『フラワーズ・オブ・シャンハイ』の現場にいたのですが、撮影が順調に進み、一時帰国したところ、空港のスポーツ紙の見出しで解任のニュースを知ったんです。
その足で会社に行きましたら、山のようなマスコミがいてカメラのフラッシュを潜るように社内に入りました。社内は大変なことになっていたんですが、『フラワーズ・オブ・シャンハイ』については会社に「今さら中止にできないですよ」と話して製作を継続することになりました。
その当時会社から言われたのは、これ以上アート的な作品を製作するわけにはいかない、ということです。全国公開で、万人に受けるものを中心にやります、と。
ちょうどそのタイミングで、オフィス北野がプロデューサーを探しているという話が入ってきました。『その男、凶暴につき』以来、オフィス北野の森社長とは面識があったので、お話を聞くことになりました。
僕が「国際共同制作に興味がありますか?」と尋ねたら、「やりましょう」とのことでした。侯孝賢のおかげで海外の人脈も作ってきていたし、普通の邦画のプロデューサーをやることでこの人脈を放棄するのはつまらないなと内心思っていたのもあって、オフィス北野に行けばそういう活動もできるのではないかと思い、『フラワーズ・オブ・シャンハイ』が5月のカンヌ映画祭で完成したのを機に、6月に退社することにしたんです。
その当時、オフィス北野は「北野」の名前に煩わされることなく自由に動ける会社ということでティー・マークという子会社を作ったばかりで、そこに私が入る形になりました。

 

ではジャ・ジャンクーの作品をプロデュースされたのは、ティー・マークなんですね。

 

そうです。『フラワーズ・オブ・シャンハイ』の撮影中、二月にベルリン映画祭に行きました。台湾から直接ベルリンに『フラワーズ・オブ・シャンハイ』のスチール写真を持っていって海外セールスの交渉を行ったりしてたんですけど、その時にたまたまジャ・ジャンクーに出会ったんです。僕が侯孝賢の作品をプロデュースしている話をしたら、彼がちょうど『プラットホーム』(2000)という新作の脚本を書いているのだけど、中国では無名の若手監督にお金を出してくれる人がいないので、外国のプロデューサーを探していると言っていました。
彼は英語のシノプシスを持ってきていたので、読んでみたらこれが面白くてですね。中国が外国文化を一気に解放した80年代を音楽の変遷を通じてロードムービーとして描くというような企画でした。
私も中国のポップスとか好きで聞いてはいたので、シナリオができたら送ってくださいと言って、その時は別れたんです。
そのあとでオフィス北野から話があった時にも、やはり頭の中にはあのジャ・ジャンクーの企画がありました。オフィス北野に加わった後、真っ先に森社長に提案して、プロデュースすることにしました。今思えば、松竹にそのまま残っていたらできなかった企画でしたね。

 

侯孝賢、ジャ・ジャンクーとアジア作品が続いていますが、その時からアジア作品に惹かれていたと言うのはあるのでしょうか。

 

アジア作品は80年代の学生の頃に見てたんです。ちょうど80年代の半ばに中国と香港と台湾で同時にフランスのヌーヴェル・ヴァーグみたいな動きがあって、若手がどんどん出てきました。最初紹介されたのはチェン・カイコー監督の『黄色い大地』(1984)という作品で、その後は侯孝賢監督の作品が続々と紹介され、一方でジョン・ウー監督の『男たちの挽歌』(1986)のように香港作品が入ってきたりしていましたね。
僕が東京国際映画祭でアジア担当をやれと言われた理由は、当時事務局の中で、アジア映画を一番見ているのが僕だったんですね。他にヨーロッパ映画などに詳しい人はいたのですが、アジア映画は僕が一番詳しかった。これは如何なものかと思いますが。
仕事にしようと思ったわけではなく、ただの一映画ファンとしてアジア映画を沢山見ていただけなのですが、それが侯孝賢作品のプロデュースにもつながっていきました。
ジャ・ジャンクーも後にインタビューで「なぜベルリン映画祭で偶然会った日本のプロデューサーと仕事しているのか?」と聞かれた時に、もともとジャ・ジャンクーが映画を志すきっかけとなった監督の一人が侯孝賢だったこともあって、「侯孝賢の映画のプロデューサーであれば、自分の映画のことも理解してくれるだろうと思った」と、話していましたから、それが仕事をするきっかけになったと思いますね。

 

〜東京フィルメックス映画祭立ち上げ〜

 

ジャ・ジャンクーの『プラットホーム』が2000年公開し、その時にフィルメックスも立ち上げたと思うのですが、何か関連などありますか。

 

僕は1999年まで東京国際映画祭の選定をやっていたのですが、最後の年に自分が決めたラインナップに上層部から口出しがあったりしました。結局は何も変えないで押し切ってやったんですが、そんな状態では続けるのは難しいと感じていました。
同時に、『プラットホーム』に加えてもう一本『少年と砂漠のカフェ』(2001)というイランとの共同製作作品を2000年の頭に撮影することになりました。
『プラットホーム』の方はもっと早く撮影を始める予定だったのですが、検閲で引き回された挙句、ジャ・ジャンクーが活動禁止処分を受けてしまい、撮影期間が大幅に遅れてしまったんです。
結局、2000年の頭から両作品がクランクインするということになり、とてもじゃないけど東京国際映画祭をやってる場合じゃないと思いました。それで、東京国際映画祭は1999年でやめて、当面はプロデューサー業に専念するつもりだったのです。
ところが、ティー・マークの同僚が業界内の関係者と話をしたところ、新しい映画祭を始めるなら協力したいという人たちが多いことがわかりました。
もともと森社長は、東京国際映画祭が存在するのは構わないが、もっと顔の見えるような小規模な映画祭があるべきだと主張されていました。
ヨーロッパには特色を持った小規模な映画祭が色々ありますし、カナダでは巨大なトロント映画祭がある一方、アジアの若手監督にスポットを当てたバンクーバー映画祭があったりなど、インディペンデント映画にスポットを当てる映画祭は必ずあると。僕も東京国際映画祭で働きつつ、そういうことは感じていました。
そのあたりの意向も受けて同僚が動いたところ、「そういった映画祭があれば是非支援しましょう」と言う話が朝日新聞社をはじめ色んなところから来たんです。当時、北野武さんがJohnnie WalkerのウィスキーのCMに出ていて、そこに話を持ちかけたところ、「映画祭をやるなら協賛金を出します」という話にもなりました。僕はどちらかと言うと、神輿に担がれて乗っただけという感じなんです。(笑)
僕が一生懸命お金を集めて始めたわけではなくて、オフィス北野の森社長や同僚がお膳立てしてくれたというのが実情です。僕には東京国際映画祭時代に作り上げたネットワークがあるので、急に映画祭を始めたとしても、作品やゲストを集めることはなんとかなるだろうと思っていました。とにかく資金さえあれば、ということで、資金に目途がついた6月に映画祭を始めることを決め、12月に開催という結構むちゃくちゃなスケジュールでスタートしたのですが、運営面ではいろいろ問題が起きたりもしました。疲弊しながらも、なんとか第一回は終わったんですけど、これがきっかけですね。結構大変でした。
それに加えて、『プラットホーム』と『少年と砂漠のカフェ』の撮影に立ち会ったり、『プラットホーム』がベネチア映画祭のコンペに決まり、海外展開に奔走したりもしましたから、今の歳ではこんなことはもうできないと思います。まだ20年前だったので、あんな無茶が出来たのだという気がします。

 

東京フィルメックス立ち上げの時点で、アジア映画というのはもう決まっていたんですか?

 

正直僕はそれ以外は無理だろうと思っていました。なぜかというと、アジアの映画だったら、東京国際映画祭時代の人脈があったのでほぼベストのラインナップを組むことはできるけれども、例えば北欧の映画で素晴らしいものがあるとか、東ヨーロッパ、南米とかまでは手が回らないというところがあったので、どうせ小規模にやるなら、まず特色を出した方がいいと思っていました。そして、得意分野であるアジア映画を軸にやろうと決めて、コンペティションはアジアの映画に限定するけれども、コンペ外ではアジア以外の映画も上映することにして、1回目はタル・ベーラのハンガリー映画『ヴェルクマイスター・ハーモニー』(2000)をやったりしました。
アジアを中心とした映画祭になった理由の一つには、まず僕のネットワークのこと、そしてもう一つには、単純に2000年当時のアジア映画が非常に面白かったというのがあります。今でも面白いですけれども、その頃はそれまで映画があまり出てこなかった東南アジアからも面白い映画が作られ始めていました。例えば、第1回フィルメックスでは16ミリで撮られたアピチャッポン・ウィーラセタクンの『真昼の不思議な物体』(2000)をやりましたね。

 

〜木下グループへの移転〜

 

2018年3月に北野武監督がオフィス北野から退社すると公言し、世間を驚かせたのが記憶に新しいですが、フィルメックスのスポンサーでもあるオフィス北野のこういった動きは、映画祭にも大きな影響を及ぼしたのではと思います。

 

そうですね。ご存知のように北野さんがオフィス北野を退社し、新しいオフィスを立ち上げることが3月14日に発表がありましたが、その少し前からそういった動きがあることはわかっていました。3月1日にオフィス北野がフィルメックスにもう支援は出来ないということが決まりました。
ただ、フィルメックスは独立したNPO法人なので、オフィス北野の影響で潰れるという事はありませんし、芸術文化振興基金や、東京都の助成金、過去の余剰資金などもあったので、2018年の開催費の3分の2くらいは見えていて、残りの3分の1は、本数を減らしたり、会場を変えるなどすれば開催は不可能ではありませんでした。しかし、長期的に考えると、それではいずれやっていけなくなると思っていたので、すぐに新しいスポンサーを探す必要がありました。
それと同時に、オフィス北野は映像制作部自体を4月末で閉鎖すると決まっていたので、僕自身、個人で映画プロデューサーを続けていくか、どこか別の会社に入るのかを考えなければならなかったんです。
これは大変なことになったなと思っていたんですが、ジャ・ジャンクーの『帰れない二人』(2018)のポスプロが3月に北京で行われており、そんな場合じゃないと思いつつも、編集作業に立ち会いうために北京に行ってたんです。
さあどうしようかと思ったその時、前年のフィルメックスの審査員をお願いした鈍牛倶楽部の國實瑞恵社長から木下グループに相談してはどうかと連絡がありました。
4月10日ごろ、北京から帰ってすぐに木下グループの代表に会いました。代表もいろいろと調べてくださっていて、「このくらいだったら支援しますよ」と、ただ映画祭をするだけじゃなくて、あなたも木下グループに来てくださいということになって、僕とフィルメックスに残っていた2人が木下グループに採用という形になったんです。このままだと1、2年で立ち行かなくなると思っていたフィルメックスの協賛もかなり早い段階で決まり、非常に助かりましたね。

 

そして、今は株式会社kino internationalに移られたのですね。

 

そうですね。木下グループはキノフィルムズという配給会社を傘下にもっていて、そこで映画制作や配給、買い付けもやっているんですね。そこに僕が入った後に海外業務を独立させた会社ができたんです。社員が7人しかいないのですが、フィルメックスのスタッフと映画の買い付けをしているスタッフ、あと海外セールスをやっているスタッフが集まって、木下グループの国際部のような形でそこに所属しています。

 

kino internationalでの実際の仕事内容をお聞かせください。

 

木下グループは自社映画を製作していますが、その中に『ある船頭の話』(2019)という映画があって、これはオダギリジョーさんが監督なのですが、たまたまオダギリさんとは過去に『ビッグリバー』(2005)という映画をやっていてよく知っているというのもあって、僕が担当プロデューサーになったんです。これは木下グループの全額出社です。こういう1億前後の映画を年に5、6本作成していて、その海外セールスや国際映画祭へのエントリーも行なっていて、これは時間をとられますね。

 

木下グループは東京国際映画祭にもお金を出していますが、木下グループがこういった文化貢献に力を入れる理由があれば教えてください。

 

利益が上がっている会社は、文化イベントやスポーツにも協賛金を出してますよね。アメリカでは企業はそういった文化貢献をしなきゃいけないというのがありますが、日本にはあまりないですね。
特に映画の場合は美術や音楽などと違って文化とみなされない傾向にあって、映画は商売だとみられる場合が多いようです。木下グループはルーブル美術館にも支援していたり、あとは、ボルネオの森林の保護といった事業も行なっています。

 

~アジア映画の変遷〜

 

東京フィルメックス開催から20年近く経ちますけど、アジア作品をみていく中で変化はありましたか?

 

デジタルで変化しましたね。年でいうと2004年、2005年が端境期じゃないかと思います。2000年にフィルメックスを始めた時はデジタル部門という部門を別に作って、小さい会場でやったんです。その頃からデジタル映画は作られていましたが、
まだまだ主流はフィルムでした。
それが2002年、僕がプロデュースしたジャ・ジャンクーの『青の稲妻』(2002)がカンヌ国際映画祭のコンペに出た時、アレクサンドル・ソクーロフの『エルミタージュ幻想』(2002)という作品があって、これが90分ワンカットで、エルミタージュ美術館の中で演技をしながら撮るという無茶な企画を実現した映画だったんです。
まだHDのカメラが大きかった時にそんなことをやったという意味では、よくやったと思います。そして『青の稲妻』の他にも、アッバス・キアロスタミとマイケル・ウィンターボトムもデジタルで作品を撮っており、2002年のカンヌ映画祭はコンペに4本もデジタル作品が入るという記念すべき年だったんです。
デジタル上映機材のクオリティも高くなり、あのあたりから35mmフィルムに変換しないで、デジタルでそのまま大きな会場で上映できるようになってきました。デジタル・カメラで安価に映画が作れるということもあり、それまで映画産業のなかったマレーシアやシンガポールからも続々映画が出てきて、その中には素晴らしい作品もありました。
アジア映画の大きな変化は、デジタル化によるところが大きかったと思いますね。

 

アジア映画の内容についての変化をもう少しお聞きしたいのですが、市山さんがアジア映画に興味を持たれた当時、台湾ニューシネマや中国第六世代といった時代は、比較的政治的な社会情勢が反映された作品が多く、それに対する熱い情熱みたいなもので作られた作品が多かったのに対して、今はだんだん内的な作品が多くなってきているように思えます。

 

その理由には、ある程度経済成長が各国で起こって、ある意味裕福になったというのがあるように思います。また、経済成長に伴い、各国にある程度の映画マーケットが出来始めました。インドネシアなど今までマーケットが存在しなかったところで、ラブストーリーがヒットしたりして、そういう点では社会問題を鋭く突っ込むものよりも、地元で娯楽映画としてウケの良い映画が作られるようになったという変化はあると思います。
ただ、フィリピンのように、麻薬戦争の問題を追求している若手監督がいたりするところもあるので、社会派的なテーマを持つ映画がアジアからまだまだ生まれてきているのも事実です。
今だと香港が大変なことになってますし、おそらくそれに対する回答のような映画もこれから出てくるでしょう。中国は裕福にはなりましたが、まだ相変わらずいろいろな社会問題があります。でも中国も昔に比べると社会派の作品は少なくなってきました。
ジャ・ジャンクーがデビューしたころは社会派映画が多かったのですが、去年フィルメックスで上映した『ロング・デイズ・ジャーニー・イントゥ・ザ・ナイト』のビー・ガンは、社会派的視点とはほぼ無縁の若手監督です。これを新たなインディペンデント中国映画の始まりかもしれないと言う人もいます。
確かに一時期に比べると、社会問題を映画で訴えようというよりは、個人的な内面の問題を取り扱う傾向が出てきていることは間違いないです。ただ日本に比べたら、まだアジアの国々の方が色々挑戦している映画はあるように感じます。

 

今後どうなっていくと思いますか?

 

大きな問題で、予測もつかないですけど、どこにおいても社会問題などは噴出しているので、アジアの監督すべてが完全に内向きになることはないと思います。
さらに言うと、東南アジアは自国のマーケットがそんなに大きくはないので、そうすると海外にアピールしなくてはならない。そう考えた時に、社会派的な映画も作られていくと思うので、それはそれで面白いと思いますね。つまらなくなる可能性はあまりないと思います。
ただ、一つ言えるのは、巨匠という感じの人がなかなか出て来ない。ジャ・ジャンクーとアピチャッポン・ウィーラセタクンは、同じ年なんですよ。1970年生まれなんで、彼らは今年でもう49歳になってしまうんです。そう考えた時、その下の世代で彼らに匹敵する監督がいるかというと、あまり思いつかない。もしかしたら、ビー・ガンなどがいずれそうなるのかもしれませんが。たとえば、ラブ・ディアスはここ最近国際映画祭の舞台に出てきましたけど、彼はかなり年齢が上です。ブリランテ・メンドーサもそうですし、2人とも評価され始めたのは2000代半ばですが、結構経験を積んだ後になってからなんです。
例えば韓国でいうと、ポン・ジュノ、ホン・サンス、パク・チャヌク、キム・ギドクなど、そうそうたる監督たちがいますが、みんなもう50代半ば以上の人たちなんで、その次の世代で彼らほどの迫力のある映画を作ってる人がいるかどうかというと、難しいところです。
そしてそれは、実をいうと日本も同じなんです。
去年、濱口竜介監督の『寝ても覚めても』がカンヌ映画祭のコンペに選ばれたんで、突破する可能性が出てきたと思ったんですけど、まだ先のことはわかりません。日本も含めて、アジアから巨匠クラスの監督がこの20年くらい、実は出てきてないんですね。

 

若い監督の作品内容にも、なにかフィルムからデジタルへの移行は関係しているでしょうか。巨匠クラスの監督が出てきていないのにもそういった影響はありますか?

 

どうなんでしょうね。それがフィルムとデジタルの違いなのかは僕にもちょっとわかりませんが、まあ撮るという事は同じなので、それによって小粒になったということはないと思いますね。ただ、社会が豊かになったことは、もしかしたら影響があったのかもしれないですし、あるいはその社会に物申す作品よりも個人を追求していく作品の方が良いと思っている人が増えているとか、そういった変化はあるかもしれませんね。

 

会場からの質問

 

Q.ジャ・ジャンクーの『プラットホーム』、『青の稲妻』、『世界』が大好きなのですが、そのあたりで市山さんとジャ・ジャンクーとの映画作りの仕方ついて聞きたいです。

 

A.『プラットホーム』は最初の脚本もすごく長かったのですが、それに加えて撮影の時に脚本にないシーンをどんどん追加し、最初3時間10分の長さになったんです。
なんでもジャ・ジャンクーのお姉さんが映画の中にも出てくる文工団に参加していて、それを見ていた彼の、子供時代の思い出なんかも詰まった念願の企画だったみたいで、編集の時に「このシーンはカットしてもいいんじゃないか」と言っても「いや、切りたくない」と言われてしまったりと、手を焼きましたね。
というのも、僕はその時、編集作業のかたわら海外のセールスエージェントと話をしていたんですが、そこで2時間30分以上の作品はやりませんと、MG(最低保証金)は出さないと言われてしまっていたので、製作費回収のためにも何とか2時間30分以内に編集してもらう必要があったんです。
個人的には3時間10分版も好きですが、それではビジネスにならないので、ここはプロデューサーの立場として、ジャ・ジャンクーに「ベネチア映画祭での上映は3時間10分版でいいけど、終わったら2時間30分以内にしてほしい」と頼みました。すると彼は「わかった」と約束しました。もし本人がやらなければ僕が勝手にやろうと思っていたんですが、彼はちゃんと自分で編集したんです。そうして出来たものが今流通しているものになっています。
ジャ・ジャンクーは、一見頑固で聞く耳を持たないように思えますが、こうした約束はしっかり守ってくれる。そうした姿に僕も安心したし、これからもやっていけると思いました。監督によっては、約束を破ったり、怒ったりしてもおかしくないリクエストですからね。ジャ・ジャンクーはベネチア映画祭が終わったらすぐに編集にとりかかり、翌年のベルリンでは2時間30分のバージョンで上映しました。

その次の『青の稲妻』の場合は、2001年4月の全州(チョンジュ)国際映画祭で上映されたオムニバス映画『三人三色』(2004)の一編『イン・パブリック』(2001)という短編映画がきっかけです。ジャ・ジャンクーはこの短編をデジタルで撮ったのですが、それが本人も気に入ったようで、『イン・パブリック』を撮影した大同という街が舞台の脚本が4月に送られてきたんです。
その脚本は文句のつけようもないほど完成度も高く面白かったため、プロデュースすることを決めたのですが、いつ撮るんだと聞くと6月に撮影すると言われたんですね。4月にシナリオが送られてきて6月に撮影なんて、一体お金をどう集めるか悩みましたが、5月のカンヌ映画祭に行った時にフランスの会社や韓国の会社と話してなんとか3000万〜4000万は用意出来たんです。
ですが、この金額だと、『プラットホーム』のような長期間の撮影は出来ず、せいぜい2週間くらいで撮ってもらう必要がありました。
そのことをジャ・ジャンクーに話したところ、なんと本当に2週間で撮影してきたんです。
事情を説明すればしっかりと約束を守るところは『プラットホーム』でも同じでしたし、さらに、やれば出来る。信頼できる監督だと思いました。
ちょっと面白いのが、本人は認めないかもしれませんが、『プラットホーム』から『青の稲妻』で、カメラの寄り方がかなり変わったことです。
ベネチア映画祭で『プラットホーム』が上映されたあと、何人かの取材に応じていたのですが、その時、褒めている人でも主役のチャオ・タオと脇役のヤン・リーナを混同してしまっている人がいたりしました。アジア人の顔は西洋ではどうも正しく識別がされずらく、さらに引きのショットが多いと間違われてしまうようだと彼はインタビューの時に気がついたんです。
『プラットホーム』は引きのシーンが多い作品だったのに対して、『青の稲妻』では、かなりカメラが寄っているのがわかります。また、出演している男の子2人に容姿がかなり対照的な少年を選んで識別しやすくしています。彼は作りたいものを作れればそれでいいというタイプではなく、お客さんに見てもらって、理解されないのなら理解されるように作らなくてはいけないという考えを持っていると思います。これはプロデューサーとしても一緒にやる意味のある監督だと思いましたね。
これがもし、俺は好きなようにやるから、あとはあんたが勝手に売ってくれというような監督でしたら、はいはいと言って関係を終わりにしてしまうのですが、彼からは良く「これでどうだろうか、わかるだろうか?」と聞かれることが多いですし、私もそれに対して、「これだと分かりづらいからこう編集した方がいい」とか、「この字幕だとわかりづらいからこうしよう」などと相談に乗ることができます。このようにプロデューサーとしてサポートすることももちろんですが、最初にジャ・ジャンクーの映画を観る最初の外国人として、外国人が見ても映画が伝わるかどうかの判断基準になっていると思います。むしろそのために僕が居るとも言えるかもしれません。他にも、英字幕を担当するイギリスの批評家トニー・レインズや、最近編集担当となったフランス人のマチュー・ラクロなど、判断基準となっている外国人のスタッフが何人かいます。
彼は、もちろん中国のお客さんに見せるのも必要だとは思っていますが、海外の人たちのサポートも大切だと感じていると思います。
その時に海外のお客さんにはわからないものをポンと出すのではなく、わかるようにしなくてはいけないと自分なりに考えているんです。
そうはいっても、長回しのショットが多かったりするなど、相変わらずスタイルにはこだわりが強いですけどね。
美学的なところで譲れないところは絶対に譲らないと思いますが、理解されなくてもいいとは思っていないんです。

『世界』(2004)の時は、脚本が凄く長く、脚本を切る作業から始める必要がありました。
最初のシナリオを読んだ時、これは英訳していると時間も経費もかかってしまうと思い、その時からはじめて中国語で脚本を読むことにしたんです。その前まではシナリオも英語で送ってもらっていたんですけど、『世界』ではグーグル翻訳などを使いながら中国語のシナリオをそのまま読んで、このシーンはここからここまで入らないなどとeメールでやりとりをしました。
テレビシリーズにした方がいいと思うほど、『世界』の脚本にはサブストーリーがたくさんあったんです。今なら資金を更に集めてテレビシリーズと映画版を両方作るなどできたと思いますが、当時は中国でそこまで資金を集めることもできず、勿体なかったですが、脚本を大幅に切って、またさらに編集段階でも切ったのが『世界』という作品です。

 

 

Q.長年仕事をする中で、国際共同製作の時の言語の問題をどう克服してきたかを教えてください。

 

A.ジャ・ジャンクーの場合でいうと、彼は最近英語が随分話せるようになり、スピーチなども英語で行なっていますが、脚本や重要な話になるとやはり通訳が必要になります。
今のジャ・ジャンクーの会社には、英語の出来るアシスタントがいますし、編集もさっき言ったフランス人のマチューが英語も中国語も出来るので、彼が通訳をする形で3人で作業しています。
通訳は必要ですが、もう10数年以上仕事をしているので、行き違いというのはほとんどありません。
最近は中国語が少し聞き取れるようになってきたので、通訳の間違いも指摘できるようになってきました。
中国語を話すのは発音や文法に障害はありますが、読むのには慣れてきました。
ですが、やはり海外で仕事をする上では、英語は出来ないと、そのたびに通訳を手配しなければならなくなるといったように、かなり苦労が多くなってしまうと思います。

 

 

Q.暗示的なシーンや印象的なカメラワークはジャ・ジャンクー監督のこだわりですか?

 

A.彼のこだわりですね。いろんな映画から影響やヒントを得ているとは思います。聞いても言わないでしょうけど、かなり映画を見ているので。
ただ、カメラワークのためにリハーサルすることはあまりありません。『帰れない二人』では、いつも一緒に仕事をしている撮影監督ユー・リクウァイの都合が合わず、はじめてフランス人のエリック・ゴーティエが撮影担当だったので、カメラワークについては事前に確認を行っていましたが、ユー・リクウァイと阿吽の呼吸で撮っている時にはあまり準備に時間をかけている様子はありません。
ただ、俳優の演技に関しては、納得がいくまで撮り直します。10数回撮り直してもOKが出ないことは普通です。

 

 

最後に、市山尚三さんから、映画プロデューサーを志す若者へのメッセージをいただきました。

 

今後映画プロデューサーを志す若者にメッセージ

 

プロデューサーは、その場その場の判断力がすごく大事なんですね。
もちろんプロデューサーの実際の経験を聞いたり、プロデューサーの書いた本を読んだりするのも大事ですが、それらは参考にはなっても、やはりとにかく自分でぶち当たってみるしかないと思います。
ただ、知識があることで救われたことは何度もあって、僕は昔の日本映画をたくさん見ていたので、脚本家の笠原和夫さんと打ち合わせをした時でも、『仁義なき戦い』の裏話を聞いたり、マキノ雅弘監督などの話をすると、とても楽しそうに語ってくれたんですね。そういったコミュニケーションから、「この若者は僕の昔の映画を見てくれているぞ」と、ある種の信頼関係が生まれるということもあって、そういったことに救われることは多かったです。
もちろん、一夜漬けで前の晩に一緒に仕事をする監督の映画を見てもいいのですが、映画の仕事をする上で、相手の映画を見てないことは失礼だと思っているので、なるべく見るようにしています。
また仕事のためではなくても、たくさん映画を見ておくことで、例えば脚本作業に行き詰まっている時に、「あの映画のシーンを参考にしてみてはどうか」とアドバイスをすることが出来たりもします。プロデューサーで映画をあまり見ない人もいるのですが、そういう知識が何かの時にヒントになったりすることがあるのは確かなので、とくに時間のある学生のうちに映画をたくさん見るに越したことはないと思います。
あと、今の学生さんが羨ましいのは、旧作を観ることも比較的簡単に出来るということです。
昔は、バッド・べティカーやアンソニー・マンなんて言われても、どこで見ればいいんだなんて思っていましたが、今では、コスミック出版の西部劇DVDボックスなどもあって、旧作が気軽に観られるようになりましたよね。
何が自分のためになるかわかりませんので、勉強のためなどとはあまり考えずに面白そうだと思ったものや、誰か面白いと言っていた映画から見てみるのもいいと思います。せっかくこれだけ旧作を見ることのできる世の中になったのですから、新作も大事ですが、昔の凄い映画もたくさん観て欲しいです。

 

 

聞き手:井上優   江頭俊太朗

写真 :石井真優

文  :井上優  眞田拓東  門脇咲和  柴垣萌子

構成 :柴垣萌子