研究科長メッセージ

研究科長メッセージ

「手」と「頭」 本江 邦夫

 美術関係の人に、美術大学で博士後期課程を担当していて、学生たちの論文指導をしていると言うと、ほとんどの方がそのような「お勉強」は制作とは関係ないのではないかといった、どこか冷ややかな反応を示されます。たしかに、美術というものを単なる手わざと考えれば、これは無理もないことのように思えますが、一方であれこれ試行錯誤を繰り返しながら学位論文をまとめていくのに応じて、作品もまた質の高まりを見せることがひじょうにしばしばあるのは否定しがたいことです。これをただの偶然、何かのまちがいとみなすこともできるでしょうが、こうした姿勢からは何も生まれてきません。むしろ、作品のこのような発展のなかに「手」(感覚)と「頭」(知性)とがお互いを補いつつ高めあっていく一連の過程を見て取るほうが意味あることのように思えます。

 学部で制作の基礎を固め、博士前期、いわゆる修士課程で独自の表現を追求することを覚えた学生が、そこで一般社会に打って出るのではなく、後期課程に進学して、さらに研鑽を積もうとする、その具体的な動機はさまざまに異なるでしょう。しかし、そこには学歴や肩書きにかかわる世俗的な理由もさることながら、自分なりにもっと制作と理論の内容を究めたいという、学問もしくは学理への純粋な意欲が通底していることを忘れてはなりません。手わざに没頭し、自己満足していた学生がやがてそこに限界を感じ、より広い視野から自身を見直す時期もしくは段階の到来を直観したとき、はじめて博士後期課程への進学が現実的なものとなって迫ってくるのです。この意味で「手」(制作)と「頭」(理論)は互いに連動しており、だからこそ論文執筆で行き詰まり元気を失くした学生が、制作の現場、つまり自身の感覚的で身体的な体験から新たなるヒントもしくは活路を見出すことで、また執筆への意欲を回復していくという、まさに弁証的な事態が生じることになるのです。

 制作と理論は互いに個別のものではない。制作は理論を、理論は制作を求め、互いに補完しあう。両者はある有機的な関係、もしくは調和(ハーモニー)のうちにあらねばならず、そこにこそ美的な意味での親和力も生じてくるのだ。これは美的実践にかんするあまりに美しい夢かもしれません。しかし、多摩美術大学の博士後期課程の最終的な目標がこの、どこか現実離れした「夢」にあることは紛れもない事実のように思えるのです。

 だからこそ、私たちは「手」(作品)と「頭」(論文)を切り離すことなく、「総合研究指導」という名目のもとに、両者を同時的に把握しうる一種の講評会を設定し、担当教員も学生も、「実技」と「理論」の分け隔てなく意見交換することで、個々の発表者により豊かでより有益な示唆をもたらすことを目指しているのです。

 多摩美術大学の博士後期課程は器が一つしかなく、美術系とデザイン系、さらには理論(美術史・芸術学)系のさまざまな学科の学生たちが混ざり合った、まさに熱き坩堝の様相を呈しています。それまで縦割りの学科の中で生きてきた学生たちにとって、これがいかに実り多き、新鮮な体験であるか、これについては当事者のさまざまな証言があり、ひょっとしたら私どもの課程の最大の魅力はこの自由で屈託のないたたずまいにあるのかもしれないと思えるほどです。

 博士後期課程に学科の壁がないということは、学生の指導に当たる教員にかんしても実技と理論の役割分担がそれほど明確にはない、お互いに遠慮をする必要がないことを意味します。実際、実技と理論の教員たちが入り混じって作品や研究発表の講評に当たる様は実に活気に満ちており、学生たちは(そして教員たちも)この熱気の最大の恩恵を蒙ることになります。「手」と「頭」の響きあい、融合がここまで見事に実践される例を、寡聞にして私は他に知りません。「総合研究指導」こそ多摩美術大学の博士後期課程の最大の持ち味であり、誇りとすべきものなのです。