荒井保洋(滋賀県立美術館学芸員)

荒井保洋(あらい・やすひろ)

1986年生まれ。2007年早稲田大学第二文学部卒業。11年、多摩美術大学大学院美術研究科芸術学専攻修了。11〜15年、多摩美術大学芸術学科研究室副手・助手。15年から滋賀県立美術館学芸員。
論文に「幽霊画にみる境界の表現」(多摩美術大学紀要第28号、2013年)、「シガアートスポットプロジェクトVol.1《散光/サーキュレーション》開催報告」(滋賀県立美術館紀要第10号、2019年)など。
批評記事に「コロナ禍の前から変わらないものとは。荒井保洋評『日日の観察者』展」(2021年3月1日、「美術手帖」オンライン版)など。

「文字のない展示空間」をつくったのはなぜか?


芸術学科修士課程出身の荒井保洋さんは、2021年にリニューアルオープンした滋賀県立美術館で学芸員を務めている。
「肩の力をぬいて美術を楽しんでもらいたい」という思いは、文字情報のない展示空間という形で現れた。

 本学科修士課程を修了後、本学科研究室の助手を経て学芸員になった荒井保洋さんが勤めている滋賀県立美術館(大津市)は、改修のための約4年間の休館を経て、2021年6月にリニューアルオープンしたところだ。「滋賀県立近代美術館」から、時代を限定されない展示を標榜して館名を変更、気概に満ちた再スタートの中にいる荒井さんは、「学芸員は想像をはるかに超えて忙しかった」と話す。1800件におよぶ収蔵品の移動やそもそもの預け先探し、作品の状態のチェックなどの膨大な業務が発生する中で、学芸員たちはそれぞれ担当が決められ、できうる限りのさまざまな工夫をしていたという。
 荒井さんの主な担当は、「工事」だった。もともとは屋外展示やオープンスペースがたくさんある金沢21世紀美術館を設計したSANAA(西沢立衛氏と妹島和世氏の建築家ユニット)が設計を担当する「新生美術館」計画が進んでいたが、資金面で白紙となり、老朽化対策を主とした改修工事となった経緯がある。新たな改修計画と向き合うことになった荒井さんは、設計事務所や工事業者、同僚の学芸員たちと論議を尽くし、美しく、より機能的な美術館の実現に向けて、館内設備やインテリアをどのようにすればいいのかを考え続けた。頭の中は、いつも設計図でいっぱいだったという。それも学芸員の仕事として貴重な経験になったことを自覚した。
 同館の周りは公園と図書館で、家族連れの来訪も多いという。「公園の中のリビングルーム」というコンセプトは、そうした人々に気軽にきてもらえるようにと保坂健二朗ディレクター(館長)が定めたものだった。
 その中で再開館後最初の展覧会『Soft Territory かかわりのあわい』を担当したのが荒井さんだった。「Territory(テリトリー)」は、生き物のなわばりを意味する言葉で、「排他性」という概念を内に含んでいる。一方、昨今の世界では、多くの分断が起きている。その中で、むしろテリトリーの際(きわ)にある境目には柔軟さがあることを人々に伝え、人と人のつながりが生まれる可能性を秘めていることを発信する展覧会になったという。展示のために12人の現代作家に新作を制作してもらい、荒井さんは学芸員として作家や作品と接することで、アートにできることの意義と可能性をかみしめながら、展覧会づくりに携わった。
 実は、同展は荒井さんが初めて館の建物の中で企画を担当した展覧会だった。というのは、休館していたこともあって、それまで展示の仕事では、屋外で実施した『アートスポットプロジェクト』シリーズにのみ携わっていたからだ。しかしそのこと自体が荒井さんにとっては貴重な経験になった。屋外では、風や雨などの自然が作品にもたらす影響や、普段美術にあまり接していない住民にどうすれば作品のコンセプトを伝えられるかなどについて考える必要があったからだ。「通常の美術館の展覧会では問題にならない問題がたくさんあり、とてもいい勉強になりました」
 学芸員としてのこうした経験は、さまざまな試行錯誤につながった。たとえば、屋外の空き店舗などで展示をしたときには挨拶文と作家紹介文を掲示していたが、作品を鑑賞する空間内に文字があることには「好き嫌い」があるのではないかと考え、館内で展示をするときにはあえて文字情報を掲示しないようにした。文字情報をたくさん読んでから作品を見るのが、本当に作品を見ていることになるのかどうかという疑問もあった。展示室内には作品名や作家名を記したキャプション出さずに、それらを記したハンドアウト(印刷物)を配った。「キャプションがあると、作品よりも文字を目で追ってしまいがちです。まずは文字情報にあまりとらわれずに、美術作品を肩の力を抜いて楽しんでもらえればと思っています」
 文字説明なしにもたらされる感動は、同館のコレクションの柱の一つである「アール・ブリュット」にも見られるようだ。フランス語で「生(き)の芸術」。いわゆる正規の美術教育を受けていない人がつくった作品を「アール・ブリュット」と呼ぶ。「それらの作家は表現せずにはいられないという、パッションそのものでつくっている。目の前で見ると圧倒される作品が多い」と荒井さんは言う。
 学芸員の職務には、館内環境の維持や来場者の案内などさまざまな業務が含まれており、いわゆる研究者とは異なる大変さはあるが、むしろそうしたことを楽しめる人にとっては本当に面白い仕事になるだろうと荒井さんは言う。学芸員を目指す芸術学科生にはとても貴重な一言である。


取材・撮影・文・レイアウト=WEN JINGRU

※本記事は『R』(2022)からの転載です。


2021展示『Soft Territory かかわりのあわい』展示風景 撮影=麥生田兵吾
リニューアルエントランスロビー 撮影=大竹央祐
2019展示『Symbiosis』屋外展示風景 撮影=麥生田兵吾