廣江泰孝(ひろえ・やすたか)
一九七〇年生まれ。九四年多摩美術大学美術学部芸術学科卒。同年から現職。大学時代の専攻は
美学。岐阜県美術館学芸員、課長補佐兼学芸係長。専門は日本の近・現代美術(絵画)、保存。日本の洋画家、熊谷守一に関して、また戦後における書と絵画の動向、交流について主に研究する。二〇一四年に著書『守一のいる場所 熊谷守一』企画・監修で、美術館連絡協議会奨励カタログ論文賞・優秀論文賞(個人表彰、自主展部門)受賞。
“美のありか”を探ることに終わりなどない
廣江泰孝さんは、岐阜県美術館(岐阜市)で日本の近・現代美術の研究や保存を専門とするなど、多岐に渡る活躍をしている。「流動的な社会の中で、アーティストは時代を形成する存在として注目されている。学芸員もそこに寄り添っていかなければ」そう力強く語る廣江さんに、これまでの経験を語ってもらった。
一九九四年に芸術学科を卒業した廣江泰孝さん。在学中は、ゼミで美学の研究に没頭するかたわら、本学の実技の学科の学生と交流し作家の考え方に直接触れることで興味関心の幅を拡げた。ある時、教授から「授業を受けるだけでなく、自分の目で本物の作品を見に行きなさい」と言われたのをきっかけに、「時間がある時はかかさず美術館や博物館やギャラリーに足を運んだ」と振り返る。現職の岐阜県美術館学芸員になってからは、岐阜を拠点とし、国内外を飛び回る。岐阜にゆかりのある近代の洋画家山本芳翠や熊谷守一、さらにはフランス十九世紀末の画家オディロン・ルドンの日本への影響について、館のコレクションを軸に研究を進めてこられたのは美術館学芸員の醍醐味と感じている。
どんなことにもアグレッシブに向き合ってきた廣江さんだが、学芸員になりたての頃は苦い経験もたくさんあったという。同館に就職一年目の真冬に、阪神・淡路大震災が起きた。地震発生直後、文部省から招集がかかり、急ぎ現場に向かうことなった廣江さんを待ち受けていたのは、目を背けたくなるような悲惨な神戸の街の光景だった。あちらこちらで火の手が上がり、建物も次々に倒壊する。瓦礫をかき分けながら歩く路上には、呆然と立ちすくむ人々の姿もあった。文化財の救援要請を受けて、とある寺院に向かい、ようやく仏像を救出してきた廣江さんに叫びかけてくる人がいた。「今そこで亡くなっている人もいるのに、なんでそんなことをしていられるのか!」悲鳴にも似たその問いかけには、ただ立ち尽くすことしかできなかった。「地域の文化を守ってほしいという思いに応えたいという気持ちと、今そこにいる人すらも救えないんだという無力さを同時に痛感させられた。非常につらかった」と当時の複雑な心境を打ち明けてくれた。この震災の経験から、人が残したいと願う芸術文化とは何か、心の中に大きな問いが生まれた。同時に作品保存への関心と、芸術への考え方を根本的に見直す大きなきっかけにもなったという。
芸術作品は時代の息吹や動き、人々の心の深層などを表現し、多くの人々に多様な問いを時代を超えて投げかける。「美のありかを探すことに終わりなどない」そう強いまなざしで話す廣江さんは、今でも震災の時に投げかけられたあの言葉を意識しているようにも思えた。人が尊び、守り、価値を見出すさまざまな美は、一体何から生まれてくるのか。人にどんな役割を果たしているのか、意識しながら芸術に向き合い続けている。
取材・文・レイアウト=門脇咲和
写真提供=廣江泰孝
※本記事は『R』(2021)からの転載です。