飯田志保子(いいだ・しほこ)
インディペンデント・キュレーター
東京藝術大学美術学部先端表現科/大学院美術研究科グローバルアートプラクティス専攻准教授。
1998年多摩美術大学芸術学科卒業。
同年から東京オペラシティアートギャラリーに勤務し、アシスタント・キュレーターを経て2009年までキュレーターを務める。
同館退職後、2年間オーストラリア・ブリスベンにあるクイーンズランド州立美術館/現代美術館で客員キュレーターを務める。
2012年の帰国後はインディペンデントとして国内外の展覧会に携わっている。
近年では「アジアン・アート・ビエンナーレ・バングラデシュ2012」日本公式参加キュレーター、「あいちトリエンナーレ2013」共同キュレーター、「札幌国際芸術祭2014」アソシエイト・キュレーターなどを務める。
海外での経験を国内の芸術祭で生かす
本学科を卒業した後、国内の美術館に11年勤め、海外へ。
飯田志保子さんは、特定の美術館に所属していないインディペンデント・キュレーターとして、国内外で広く活躍している。
語学の修得にも力を入れ、在学中から海外作家のアシスタントとして展覧会にかかわることがあったという。
飯田志保子さんは、インディペンデント・キュレーターとして、さまざまな国際芸術祭や展覧会に携わっている。共同キュレーターを務めた『あいちトリエンナーレ2013 揺れる大地――我々はどこに立っているのか:場所、記憶、そして復活』は、東日本大震災を強く意識した内容だった。「世界の危機意識を共に深く考える機会」になったという。札幌市内10ヶ所以上の会場に作品を展開させた『札幌国際芸術祭2014』では、アソシエイト・キュレーターを務めた。「都市と自然」というテーマのもと、札幌の水の由来を探った宮永愛子の陶を使った作品や、札幌という都市を独自の視点で撮りおろした松江泰治の写真作品などが展示された美術館2館のキュレーションを主に担当し、札幌の近代化と社会と芸術の関係を再考する試みに尽力した。
キュレーターは、日本では学芸員と訳されることが多い。仕事の内容は多岐にわたる。美術家や作品の調査研究、収蔵品の管理や美術館の運営業務はもとより、展覧会の企画運営、予算管理や助成申請などの財政業務、作品を借りるための所蔵者や関係各所との交渉を行う。新作を委嘱する場合は制作に付随する多種多様な調整・交渉も必要だ。そのほか、カタログ制作、来場者に作品解説をするトークなどの普及教育も大切な業務である。展覧会の数年前から会期後まで実にさまざまな仕事をこなしているのだ。そのなかで特定の美術館に所属せず、展覧会制作を生業とするインディペンデント・キュレーターは日本ではそれほど多くない。「決して稼げる職業ではないけれど、組織に縛られず個人の采配に委ねられた部分が大きいのがメリット。ただし、実際に一人でできることは何もなく、展覧会は多くの人々、組織、団体との調整や協働によって成立するもの」だという。
もっとも飯田さんは、最初からインディペンデントだったわけではない。本学科を卒業した1998年から、東京・初台の美術館、東京オペラシティアートギャラリーの立ち上げにかかわり、アシスタント・キュレーターを経てキュレーターとして11年間在籍した。
その後、2009年から2年間、オーストラリア・ブリスベンに渡り、クイーンズランド州立美術館/現代美術館で客員キュレーターを務める。アジア・パシフィック美術に特化した館内の研究機関に在籍し、『アジア・パシフィック現代アート・トリエンナーレ(APT)』の調査研究を行うためだった。APTは1993年から3年に一度開催されている、アジアとオセアニア地域を中心とした国際展だ。西洋美術とは異なる概念でアートを捉えており、世界からも大きな注目を集めている。
飯田さんが渡航した当時は日本でも大規模な国際展がいくつか開かれていたが、APTのように継続されているものは日本では少なかったそうだ。クイーンズランドはどのような組織の機構でAPTを実現させてきたのか。なぜ継続が可能なのか。国際的な枠組みのなかでどのような文脈を築いてきたのか。これらの疑問について調査研究したかったのだという。2011年からは活動拠点を韓国・ソウルに移し、韓国国立近代美術館が受け入れ先となってリサーチを4ヶ月間行なった。日本で携わった芸術祭にもこうした「海外での調査研究が生きている」という。
芸術祭をめぐっては、こんな経験もしたそうだ。札幌国際芸術祭2014のプレス・ツアーをたまたま聞いていた札幌市民とあいちトリエンナーレ2016の際に偶然再会し、「それまで現代美術の作品の見方はよく分からなかったが、トークを聞いて開眼することがあった」と伝えてくれたというのだ。「アートに対する人の意識や受容の仕方は変わる」と実感した瞬間だった。
国内海外にかかわらず、国際展での仕事には語学力がものをいう。学生時代にはイギリスの大学院への進学を目指して英語の勉強に特に力を入れたという。大学の先生からTOEFLのビデオを借りて勉強をしたり、語学の修得を意識して洋楽を聴いたりして、英語に慣れ親しむ努力をした。その結果、学生の時から海外アーティストのアシスタントとして展覧会にかかわる機会を得たという。おそらく人一倍の勉強をしていたのだろう。現代美術やキュレーターに興味を持つようになったのも、そうした国際展でのアルバイト経験がきっかけだったようだ。
芸術学科で受けた書籍制作の授業も仕事に活きたという。数人の班に分かれて架空の出版社を作り、出版のプロセスを学ぶ。今でも続く平出隆教授の名物授業である。架空の書名を考えたり、書籍の造りがどうなっているかを調べたりすることで、一冊の本がどのようにしてできるのかを見渡す内容だ。飯田さんが東京オペラシティアートギャラリーの立ち上げにかかわった当初は、展覧会カタログの制作を外注せず、デザイナー、紙の専門商社、編集者と直接やり取りをして自分たちで作ったという。自主制作に意欲をもって取り組めたのは、授業の経験が背景にあったからだろう、実に貴重だったと振り返る。
2014年からは東京藝術大学で教鞭を執っている。美術館所属とインディペンデントの両方を経験し、美術館の「中と外」が見えるキュレーターとして、 今度は「大学という別の機関で新たな経験をしてみたい」と考えたという。授業ではアーティストを呼んで、生の声を聞く。可能であれば、実作も見に行く。ディスカッションをすることで、 作り手を目指す学生と企画や論評を目指す学生がお互いの視点を学び合う。そうした話の中で出てきた次の言葉が、心に残った。
「一つの展覧会や一人のアーティスト、一つの作品をどれだけ多角的に見られるか、どう言語化するかを考えるのが大切なのです」
取材=若林花南、栗田瑞貴
文=若林花南
※本記事は『R』(2017)からの転載です。