JUNKO(じゅんこ)
1982年に多摩美術大学芸術学科二期生として入学。同年、「非常階段」に加入する。
現在、日本では「非常階段」のメンバーとして活動。海外ではヨーロッパを中心にソロ活動を続けている。
「非常階段」でスクリーマーとしてデビューヨーロッパではソロ活動を展開
本学芸術学科の芸術学科の第二期生として、在学中の講義では先端の現代美術に触れていたJUNKOさんは、人間の究極の叫びで音楽を表現する“スクリーマー”として活動を続けている。
海外でのソロライヴには、なけなしの金をはたいて聴きに来るホームレスもいるという。
昨年10月中旬、東京・雑司が谷のある店の一室で一人のミュージシャンが来るのを待っていた。引き戸が開く音がしたので視線を向けると、本誌のインタビューを快く引き受けてくれたJUNKOさんが姿を現した。
フランスなど海外を中心に活躍しているJUNKOさんはあるとき、「言葉のような、言葉でないような声を発する」叫びの発生にえも言われぬような魅力を発見し、それ以来“スクリーマー”(直訳すると「叫ぶ人」)として活動を続けている。
実は、初めてJUNKOさんの曲を聞いた時は、究極の叫びを追求したと思われる独自の声が電子音のように聞こえた。あるいは、こうも言えるかもしれない。JUNKOさんはあたかも人が作った一個の“楽器”のように全身を機能させていたのではないか、と。ライヴではしばらくの間その声を聴いていると、電子音に聴こえていたそれが次第に魂の叫びであることに気づき、こちらの心も震え始めたのである。
JUNKOさんは、本学で1981年に創設された芸術学科の2期生だ。JUNKOさんが在籍している間は、現在の芸術学科で学ぶことができるような「ことば」の講義などはなく、アクション・ペインティングやパフォーミング芸術について熱心に学んだという。当時、批評家として現代美術の世界で大きな存在感を示していた教員の東野芳明氏らの講義は、さぞ気合いの入ったものだったのだろう。授業で、イタリアの美術家ルーチョ・フォンタナの切り裂かれたカンヴァスを模して制作したこともあれば、教員が学生を学外の喫茶店に連れ出して講義をしたこともあったそうだ。昭和という時代の空気を感じさせ、今の学生にも興味深いキャンパスライフである。
JUNKOさんが音楽を始めたのは、ノイズバンド「非常階段」のJOJO広重さんに誘われたからだという。JUNKOさんは1982年から「非常階段」のメンバーとして国内で活動を続けた。そして、2002年に転機が訪れる。ギタリストのmichel henritziさんがソロアルバムのリリース話を持ちかけたのだ。話を受けたJUNKOさんはフランスで録音をし、その足でヨーロッパツアーを決行。「非常階段」のメンバーとしての活動に加え、ヨーロッパを拠点にしたソロ活動が始まった。
海外での活動の中では、ノルウェーの教会とフランスでの広大な森で行ったレコーディングが特に印象に残っているという。森は回りきるのに車で7日間もかかるほどの広さだったそうだ。森の中であの声を聴くと、どんな感興が胸の中に湧いてくるのだろう。想像するだけでわくわくする。
それにしても、音楽界の慣行や聴衆の反応が日本とは異なるであろう海外での活動に不安はないのだろうか。海外では公演先で機材が揃ってないこともざらにあるという。JUNKOさんは穏やかな顔で、「michel henritziさんがいるかぎり、安心して活動できる」という。ソロのミュージシャンも一人で活動できるわけではない。いかに信頼できる人と一緒に仕事ができるかが大切であることが分かった。
本学科の出身ということで、JUNKOさんに自身の中で音楽に対して美術が与えた影響について尋ねてみた。深く考えたことはなかったそうだが、思い返して見ると、海外でのライヴはしばしば現代美術系のギャラリーや美術館を会場にしてきたという。ミュージシャンの公演はライブハウスでという型からおそらくごく自然にはみ出していること自体が興味深い。そもそもパフォーマンスはアートである。破天荒な表現の数々を取り上げた授業の内容が潜在的にでもJUNKOさんに訴えかけ、その独自の表現を生み出したのだとすると、それもまた興味深いことである。
ヨーロッパの田舎町で活動を続けていると、畑しかないカントリーサイドの納屋のようなところから、駅近くの小さなライヴハウスまで実に多様な場所を公演会場にするようになったという。中には、車でしか来られないような場所でライヴをしたことがある。その時には、JUNKOさんは「こんなところまで、お客さんがたくさんくるのだろうか」と思ったそうだ。
だが、それは杞憂だった。車で来る客はもとより、バスをチャーターしてくるグループまであったというのだ。「母親が病気なんだ」と言って会社を休んで来た人もいれば、なけなしの金をはたいて聴きに来たホームレスもいたという。日本では想像がつかないようなことが、ヨーロッパではある。それもまた文化なのだろう。
取材・文=田波奏平
撮影=川崎るい
※本記事は『R』(2019)からの転載です。