駒形克哉(こまがた・かつや)
1959年東京に生まれる。
85年多摩美術大学芸術学科卒業。
同年伊政府給費留学生としてミラノ・ブレラ美術学院絵画科ルチアーノ・ファブロ教室に留学し、90年に卒業。2005年文化庁芸術家研修としてローマ大学に留学。
展覧会やワークショップを多数開催している。
作家も評論家も架空の美術作品とは?
本学芸術学科を卒業後、イタリア・ミラノに留学したアーティストの駒形克哉さんは、フィクションと実在をつなぐ作品をこれまで多く制作してきた。
イタリアで制作したある画集には、作品写真や評論家による批評文が掲載されているのだが実は…
話を聞いていると、ほかにはない駒形さんの魅力的な世界が見えてきた。
秋も深まり始め、学内では葉の色づきも見かけるようになった頃、アーティストの駒形克哉さんの行きつけという都内のカフェで取材が実現した。お昼時を過ぎていたからか、店内に人は少なく、最近流行のJ–POPをBGMに奥で店員が食器を片付けたり、テーブルを拭いたりとせわしなく動き回っている。「お待たせしました」。柔らかな笑みを浮かべながら入ってきた駒形さんは、シンメトリーでかっちりとした作品や事前に見ていた本人の写真から感じた印象よりも穏やかな人柄であることがすぐに分かり、内心ほっと胸を撫で下ろした。
駒形さんは本学科在学中には美術史などの理論を学び、卒業後、イタリアのミラノ・ブレラ美術学院に留学した経歴を持つ。イタリアは美術史の起源に近いお国柄、しかもローマ、ヴェネツィアなどの都市ごとに特徴的な文化を展開させている。そうした環境の中で1980年代の留学時に制作したという作品をいくつか見せてもらった。当時のミラノでは、60年代後半から70年代にかけて展開した新聞紙や石など安価な素材を使うことを旨としたイタリアの芸術運動「アルテ・ポーヴェラ」(貧しい芸術)の流れにのった作品を作る学生が周りに多く、駒形さん自身もまたその一人だったそうだ。一方では、普通に油彩画も描いていたという。現地で得られうるあらゆるものに対して貪欲に学ぼうとしていた美術学生の姿が見えてくる。
留学先の卒業論文を基にした作品《カスパー・フィリップ・ゼーゲスライヒの芸術と生涯》(1992年)について教えてもらうと、実にユニークなものだった。ある画家の画集として編集・制作された書籍なのだが、作家名・作品名に始まるすべてが架空の内容だったのだ。フランス綴じ(アンカット本)の書籍の造本、本文執筆、掲載作品の制作、翻訳などのすべてを駒形さんが手がけたというから半端ではない。タイトルの画家、評を寄せている美術史家、出版社などはすべて架空。唯一、翻訳者として記されている駒形さんの名前のみが実在の要素だという。そうすることで、限りなくノンフィクションに近いフィクションを作り上げたのである。
『ミダス王の金貨』は、きらきら光る金貨の作品。こちらも同様に駒形さんが制作した書籍の中で取り上げられている。本文は、古代ローマの詩人オウィディウスの変身物語の一節。ラテン語で「銅貨が金貨になると喜んだが、偽金だと思われた為に周囲は受け取らず通貨危機となった」といった内容の文章4行を挿し込んだ。文が発見されたのは18世紀の画家の作品を修復の際、作者不詳の絵の裏側から見つかったことが書かれた雑誌の切れ端を駒形さんがミラノ市で見つけたという、入り組んだフィクションである。駒形さんは雑誌の切れ端まで制作し、発見時の情景を思い浮かべることができそうなほどに細かな設定がなされている。歴史を題材にして小説を書くかのように、美術書や歴史書を制作する。何という発想なのだろうと思う。そこには、作家志望者であっても理論の学科である本学芸術学科に在籍することの意義が見えてくるように思えた。
その後駒形さんは、切り絵を技法にした作品を多く手がけるようになる。金紙が光で輝く一方で白い紙にのっぺりとした影が映る対比、蝋燭の光による自然のゆらめきやミラーボールの人工的な光の動きなど、光と陰の存在が実に鮮やかで美しい。かたや真っ赤な画面の裏側に赤く熟れた果実が描かれている作品は、扉を開けないと見えない。鑑賞はこうしたアクションをすることで、駒形さんの世界へと導かれるのである。鑑賞者はまた、そこで作品が“物”であることをも実感する。
駒形さんの作品は、フィクションなのに実在の証拠を示すある種の資料のようなものである。同じフィクションである小説と異なるのは、証拠が“物”として存在することだ。「遺物(=駒形さんの作品)が物体として存在するからこそ、ストーリーを考え、思いを巡らせる」と駒形さんは言う。そして鑑賞者は、フィクションであるにもかかわらず、そこに実在という概念に近い何かを感じる体験ができるのだろう。
取材・文=速水陽夏
※本記事は『R』(2020)からの転載です。