1963年長野県生まれ。
1988年多摩美術大学美術学部芸術学科卒業。
1989年雑誌『ユリイカ』の「ユリイカの新人」に選ばれ以降詩作を発表。
一方で1988年から2007年まで横浜美術館に学芸員として勤務。
主な著書に『反写真論』(オシリス、1999年)『写真分離派宣言』(共著、青幻舎、2012年)等がある。
また2007年より明治大学理工学部准教授、2012年より同教授を務める。
藤田康城(ふじた・やすき)
1962年東京都生まれ。
多摩美術大学で現代美術、東京都立大学(現首都大学東京)でフランス文学を学ぶ。
2001年4月、プロデューサー、前田圭蔵、作曲・演奏の猿山修、詩人・写真批評家の倉石信乃、女優の安藤朋子と共にシアターカンパニーARICAを結成。
同年11月の第1回公演から今まで全作品の演出を担当する。
また2015年より多摩美術大学統合デザイン学科の非常勤講師も務める。
ARICA
www.aricatheatercompany.com
Theater Company ARICA
都心のカフェから海外の演劇祭まで多彩な場を舞台に
シアターカンパニー・アリカは、メンバーに本学芸術学科の出身者が多数在籍する劇団だ。
演出と美術を担当している藤田康城さんと、テキスト・コンセプトを担当している倉石信乃さんは、在学中に机を並べたものの卒業後は別の道を歩む。
その後の必然的な再会が稀有な活動をする演劇集団を生んだ。
シアターカンパニー・アリカの演劇は安易な理解を許さず、鑑賞者の意識をむしろ混沌へと導く。『ミシン The Machine』という演目を例に取る。舞台には、街の建設現場で見られるような鉄パイプが人の背丈よりやや高く組まれている。中央にはこの舞台のカギを握るであろう旧式の、古めかしいミシンが一台。その上には、人がすっぽり収まりそうな一枚の大きな白布が吊るされている。登場するのは一人の女優のみ。耳を澄ましてやっと聞き取れるくらいの声で断片的な言葉をつぶやきながら、キャスター付きの椅子で舞台上を動き回る。その姿は滑稽だが、何か無性に悲しい。
アリカの演劇を観てすぐに分かるのは、物語を志向していないということである。演劇というよりも人の動きを見せることを主体としたパフォーマンスに近い。倉石信乃さんは、「われわれが学生だった頃、太田省吾の無言劇を見て、シンプルでありながらも豊かな感情表現に感銘を受けた。その経験が、今のアリカの原点と言える」と話す。詩人でもある倉石さんは、演目の方向性を詩で表したり、海外の戯曲を訳出したりするのが主な担当である。2014年2月の公演では、サミュエル・ベケットの『しあわせな日々』を訳した。「現代においてもベケットの戯曲は新しい。だからいま訳し、上演する意味がある」と倉石さんは語る。
アリカは専用の劇場を持たない。しかし、彼らにとってそれはデメリットではない。公演の場を移すこと自体が表現の幅を広げ、結果的に劇団を成長をさせているからだ。アリカの活動は国内だけでなく、世界各地に及んでいる。都内の小さなカフェやクラブはもとより横浜の歴史的建造物として知られる銀行跡、新潟県の『大地の芸術祭』の施設「まつだい農舞台」などがステージに。海外ではニューヨークやエジプトのカイロに遠征、3年前にはインドの首都ニューデリーで開かれた『インド国際演劇祭』に招かれた。
アリカは演じる空間に応じて演目の内容を少しずつ変えている。2006年に初演した『KIOSK』は、巡回したニューヨークとニューデリー、横浜で、それぞれ公演の内容が異なる。根底には“劇場”という空間と演劇の関係に対する熟考がある。その演出と舞台美術を担当しているのが、藤田康城さんだ。
「“劇場”と一口に言っても個性があります。例えば壁の素材は何なのか、どこからどこまでを舞台として考えるのかなど、空間に合わせて僕たちは演劇を作っています。会場が変われば内容や演出、演技も当然変わります」
実際『KIOSK』は当初『PAYDAY』という別の名前だった。そして国際舞台フェスティバルの招聘作品でもあったので、舞台を行う小規模劇場に合わせて作品は構成された。上演する場所が変わっていくにつれて、作品も徐々に変化していく。
横浜では、大きく広々とした空間を補うために登場人物を増やし、ニューヨークに招かれた際は役者の数を元に戻した。そして現地の人に役者の発した言葉を理解してもらうため、字幕を映像的な加工を施して舞台上に投影した。こうすることで舞台全体の雰囲気を壊すことなく楽しむことが出来る。それどころか作品が、よりバージョンアップしたとも言えそうだ。このようにしてアリカの作品は同じものではあり続けない。
藤田さんと倉石さんの出会いは、1984年に入学した本学芸術学科だった。ただし、最初から仲がよかったわけではないという。
「藤田くんは授業が終わった後、先生にしばしば生意気な質問をするような学生でした。私はいつも後ろの方に座っていて、『あいつ、嫌な奴だな』などと思っていました」
懐かしそうに話す倉石さんの言葉から考えると、正反対のタイプだったよう。その後2人がお互いを強く意識するようになったのは、藤田さんが演劇志望、倉石さんが詩人志望と、ともに表現者の道を歩み始めたからだろうか。しかし卒業後藤田さんはフランス文学を学ぶために東京都立大学(現首都大学東京)へ。倉石さんは横浜美術館の学芸員に。2人は別の道を歩み始める。
再会は、藤田さんとある女優の出会いに端を発した。女優の名は安藤朋子。現在はアリカで共に活動している役者だ。藤田さんは、かねてからのファンだったそうだ。もともと演劇志望だった若者がそんな女優と出会えば、舞台の実現に走るのは自然なことだろう。
「僕自身は戯曲を書けない。じゃあ倉石君にお願いしようということになった。彼は雑誌『ユリイカ』で詩を発表していて、すごさは分かっていた。友人としてではなく純粋に1人の書き手として彼に脚本をお願いしました」
一方、話を受けた倉石さんは、「学芸員はやりがいのある仕事。でも美術館に就職した直後から、それとは別の、自分の時間も必要だと思ってやっていた」という。
そして、2001年4月、アリカが結成された。大学で机を並べる日々を過ごした後の別れと再会が劇団を生んだのは、必然だったのかもしれない。
取材=田中創、今井楓、韓松鈴
文=田中創
写真=今井楓
※本記事は『R』(2014)からの転載です。