野田由美意(のだ・ゆうびい)
1971年生まれ。
多摩美術大学大学院修士課程修了。
スイス政府奨学金を給費され、チューリヒ大学哲学部美術史学科に留学。
成城大学大学院博士課程後期修了。
博士号(文学)を取得。
成城大学文芸学部、多摩美術大学美術学部等非常勤講師を経て北見工業大学准教授。
主要論文:「パウル・クレーと舞踊―第一次世界大戦勃発までに描かれた踊る人物線描画を中心に」『鹿島美術研究』年報第22号別冊、2005年(2006年、財団法人鹿島美術財団「優秀者」)など。著書に『パウル・クレーの文字絵―アジア・オリエントと音楽へのまなざし―』(アルテスパブリッシング)。
ことばとイメージの関係を追求し、パウル・クレーにたどり着く
本学科の大学院修士課程を修了した後、スイス・チューリヒに留学した。
パウル・クレーの研究に本腰を入れるためだ。
文字絵の研究成果は書籍になった。
北海道の大学で教鞭を執るようになった近年は、ナチスと美術の関係の研究にも力を注いでいる。
2015年4月から、北海道北見市の北見工業大学で西洋美術史とドイツ語を教えている。近年特に力を入れて研究しているのが、デュッセルドルフを中心に、ナチスが当時のドイツの美術界にどんな影響を与えたか、である。たとえば、スイス出身でドイツを拠点に活動していた画家、パウル・クレーは、1933年にナチスが政権を握ると、教授として勤めていたデュッセルドルフ芸術アカデミーを追われ、故国に「亡命」することになった。ナチスはクレーのみならず、モダン・アーティストたちに「退廃芸術」の烙印を押し、彼らを迫害した。1871年のドイツ帝国成立以来、ドイツの美術界は、ヴァシリー・カンディンスキーやフランツ・マルク等のモダン・アーティストと旧来の画風に拘泥する保守層が対立を生んでいたという。ナチスは保守層を支持し、モダン・アートを積極的に排斥したのだ。
その結果野田さんは、美術と政治の関係に目を向け、いくつかの論文を書いた。たとえば2016年に発表した「ナチス時代における『若きラインラント』 の画家たちの芸術活動について」は、 戦前のドイツで結成された芸術家グループ「若きラインラント」 に着目し、 美術界にも大きな影響力を持ったナチスの政権下でどんな動きをしたのかを3人の画家を例に取って検証し、 芸術と政治との関係を問うた論文だ。
しかし、野田さんはなぜナチスと美術界の関係に目を向けるようになったのだろうか。野田さんは、北海道で教鞭を執る前に非常勤講師として教えていた多摩美術大学や上智大学等でドイツ近代美術の講座を持っていた。そこでナチスの話をすると、必ず学生たちが大きな興味を示したという。「これはみんなが真剣に考えるべき問題」と野田さんは考える。もともと、研究というのは社会に向けて何らかの意義があるとみなされることを発信するべきもので、個人の趣味で自己満足するようなものであってはならないとの思いがあった。
一方、ナチス時代のデュッセルドルフのアートシーンを深く研究している日本人はいなかった。ナチスが美術家たちに何をしたかを調べていると、政権はユダヤ人等を迫害すると同時に、美術家たちの弾圧を始めたことが分かった。研究を進めることで、政治による文化の弾圧の悲惨さを生々しく感じることになったのである。美術に関心がある人ならこうしたことを誰もが感じるのではないかとの思いが、さらに研究を推し進めたそうだ。
野田さんのドイツ美術の研究は、大学院修士課程でパウル・クレーをテーマに選んだことに始まるという。ただし、学部生時代は“ことばとイメージの関係”に興味を持っており、平出隆教授のゼミに所属していた。卒論のテーマには、泉鏡花を選んだ。文学の世界でイメージを表現している点に大きく心が惹かれたからだ。「泉鏡花の小説を読むと、すぐにイメージが浮かぶ」と野田さんは言う。幻想的な世界をまさに“描いた”作家だったのだ。たしかに『夜叉ヶ池』『高野聖』などの小説は、すぐにでも映画になりそうなほど豊かなイメージを読者に与える。クレーを修士課程のテーマにしたのは、絵画の世界でことばとの深い関係を持った作家だったからだ。
クレーのさまざまな絵画を美術館や画集で見て、関連する文献を読んでいると、今度はクレーとアジアとの関係が浮かび上がってくる。調べてみると、クレーは江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎の作になる『北斎漫画』の模写をするなど、ジャポニスムの画家としての一面を持っていた。さらには、中国の抒情詩集を自分の作品の中に取り込んでいた。文字のような絵も多く描いていたクレーに、野田さんはどんどんのめり込んでいった。そして、1999年9月、クレーの故国であるスイスのチューリヒ大学に留学するのである。
学部生時代はフランス語を履修していたが、クレー研究を行うためにはドイツ語の習得が必須だった。修士時代から文献を読むためにドイツ語を勉強していたが、チューリヒ大学で研究生活を送るためにはより高度なドイツ語の能力を必要とした。留学前から語学学校に通い、現地の大学に入る語学力を身につけたという。凄まじい情熱である。
世界有数のクレーの専門家であるヴォルフガング・ケルステン教授のもとで2年半ほど、薫陶を受ける。その成果は、博士論文とそれに基づいた著作になった。2009年に出版された『パウル・クレーの文字絵』(アルテスパブリッシング)である。たとえば、《かつて夜の灰色から浮かび上がった 色彩文字》という絵画作品で、クレーはアルファベットで書いた一篇の詩を、銀色に塗った紙を貼り付けた部分を挟んだ画面の上下に敷き詰め、生まれた間隙にさまざまな色彩を配した。こうした作品は「文字絵」と称され、野田さんはクレーの一連の「文字絵」について多くの例を取り上げ、ことばとイメージの関係を追究したのである。
取材・文=藤井奈穂
※本記事は『R』(2018)からの転載です。