家族間で繰り広げられる愛憎劇。日々のニュースを見ていれば家族間のトラブルの多さに目を向けざるを得ない。家族というものは、人間誰もが一番初めに向き合うことになる小さな社会である。人間が一人の人間として、大きな社会に出るときに通らなくてはならなく、様々なことをここで学び、成長していくためには必要な場所である。しかし、家族は愛が溢れる場所とされながら、時に憎しみを生む場所となりうるのだ。それらは紙一重である。我々は潜在的にその二つの感情を家族に抱いて生活しているのかもしれない。このドキュメンタリー映画は、そのような些細であるにもかかわらずとても大きな問題が包み隠されていることに対し警鐘を鳴らしている。私が見たのは二回目の上映であったが、会場は満員であり、二回目見るという方もおられるほど注目を集めた作品であった。
「私は父親に洗脳されていたと思う。」こう述べるイルカの言葉からこのドキュメンタリーは始まる。一見どこにでもいるような女の子、イルカは父親から性的暴行を過去に受けており、父親を裁判にかける決断をした。イルカは、愛情表現という名の下、父の性交渉を14歳で受け入れた。思春期を過ぎ、だんだんと成長していくにつれて父親の自分に対する行為に疑問を持ち、友達に相談していくうちにこの父との関係が異常であるということに気づく。それまでイルカは何が正しいのか、正しくないのか右も左もわからないまま父親を信じ、受け入れるしかなかったのだ。親子という永続的な主従関係の中で反抗の余地がなかったからだろう。イルカの父親は、自分の煮えたぎるような性の欲望を満たすために、小さな社会の主従関係を利用したのだ。
イルカの決断は勇気がいるものであったはずだ。裁判を起こすということは父親だけでなく母親、妹を敵に回すということを意味するものであった。このドキュメンタリー映画は一見イルカの父親に対する復讐劇に思えるが、むしろ家族というものの真意を問いただすために、そして家族関係を取り戻すために彼女が行った最初で最後の手段であったのではなかろうか。
このドキュメンタリー映画だけにとどまらず、閉じられた小さな社会で起こる問題は山ほどあるが、それは所詮「家庭の問題」として扱われ、世の中から隠蔽されがちである。アオリ監督がこの作品を通して伝えたかったこととはまさにこのことである。家族がいるということ、家庭があるということは幸せの象徴として語られることが多いが、決してそうとは言い切れない。家族は、最小単位の社会であり、そこには現代社会の縮図とも言えるような問題がある。時にそれは殺人事件に発展する。
この映画中盤のシーンにおいて、一回目の裁判の判決直後、路上を仲良く歩くイルカの両親を不穏な音楽とともにぐらつくように追いかけるカメラワークは、家族という存在のおぞましさを的確に表現している。また、それとは対照的に後半部分のイルカの幼い頃とある絵本について印象に残っていると語るシーンでは、アニメーション映像で構成されていたり、ところどころに監督の視覚的な表現のこだわりが現れていると私は感じた。
二回目の判決でいい結果が得られたことは、作品として一瞬ハッピーエンドのように思えるだろう。しかし彼女の人生において本当にこの事件が解決することは無いといっていい。この先も父との関係は、家族という関係は断ち切ることは決してできないからだ。家族とは皮肉なものである。結局人は家族を追い求めてしまうのである。イルカは裁判の後、しきりに母親とコンタクトをとりたがった。厄介で時に恐ろしい存在となりうるものでありながら、人は拠り所としての場を「家族」に委ねている。生きる上で、人が求めるものでありながらも、手に入れればそれと一生向き合わなくてはならず、逃れられないのだ。
文=中井健太郎
『私の非情な家』(英題:My No-Mercy Home)
韓国/2013/75分
日本映画監督協会賞受賞作品
監督:アオリ(Aori)