イメージフォーラムフェスティバル2017は4月29日から5月7日まで、渋谷のシアター・イメージフォーラムをメイン会場に開催された(京都、福岡、横浜、名古屋にも巡回)。前身となるアンダーグラウンド映画新作展や実験映画祭から数えると40年以上の歴史をもつ映像フェスティバル、31回目の今年は36プログラム(ほかにインスタレーションやティーチイン)を上映した。「タンジブル・ドリーム 触れることのできる夢」という特集テーマでは、ミヒャエル・パルムのドキュメンタリー『未来の映画・映画の未来』(2016)が、デジタル時代にフィルムという物質がもつ意味を、その保存や修復のプロたちの周到なリサーチとインタビューを重ねながら探求していくもので啓発的だった。
ほかに特別なプログラムとしては、今年4月12日に85才で亡くなった映像作家・松本俊夫のジャンルを超えた映画的足跡を、本人のインタビューと関係者の証言でたどる筒井武文監督『映像の発見—松本俊夫の時代』(4部構成、9時間)の一挙上映、萩原朔美(4プロ)と芹沢洋一郎(2プロ)の回顧上映、近年再評価の機運が高い今井祝雄と中井恒夫の初期映像作品の特集上映など、マニアックで貴重な企画が多かった。また2016年6月25日に71才で急逝したピーター・ハットンへのトリビュート(『マノンのための風景』ほか4作品を上映)は、ハットンの反時代的とすら言えるモノクロ・サイレントによる風景映画が不思議な「気配」を生み出して、現実そのものを越えた幻想的クオリティや孤高の気高さを感じさせ、物語も言葉もない写真的ともいえる彼の映画の魅力を存分に堪能させてくれた。
英国の映画雑誌『サイト&サウンド』2010年2月号の21世紀の映画特集で「2000年代を代表する30本」に選ばれたミヒャエル・グラヴォガーのドキュメンタリー「労働者の死(ワーキング・マンズ・デス)」(05)を今回見れたことも貴重な体験であった。苛酷な条件下で働く人々へ向けた、写真家サルガドともまた違う距離やまなざしには、詩的な神話学者の佇まいを感じた。訳の分からぬ状況に突然観客を放り込む構成、周到な複数のカメラの配置、フィクションのように巧みなつなぎなどには、老獪さすら感じなくもないが、印象深くインパクトのある作品に変わりはない。劇映画も手がけるオーストリアの異才グラヴォガーは昨年4月22日にモンロビア(リベリア)で新作(今回上映された遺作『無題』)の撮影中にチフスからのマラリア感染で54才で病死した。日本では未紹介と言っていい作家なので、今後大きな回顧上映が行なわれることを望みたい。(文=西嶋憲生)
『ドーソン・シティー:凍結された時間』Dawson City: Frozen Time (アメリカ/デジタル/2016/120分)
監督・脚本・編集ビル・モリソン/音楽アレックス・ソマーズ/サウンドデザイン ジョン・ソマーズ/製作ビル・モリソン、マデリン・モリノー/ヒプノティック・ピクチャーズ、ピクチャー・パレス・ピクチャーズ、アルテ・フランス=ラ・リュカルヌ、MoMA
ビル・モリソン(1965-)はアーカイブ映像を使い現代の作曲家とコラボレートすることで知られるアメリカの映像作家で、MoMAで回顧上映も行なわれた。日本では代表作『ディケイシャ』(2002, 67分)が2014-16年の巡回プログラム「ニューヨーク近代美術館映画コレクション」展の1本として上映されている。本作は2016年のヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門でワールドプレミア上映され、ロンドン映画祭、ニューヨーク映画祭等でも上映された。(西嶋)
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1896年、ジョージ・カーマックとトリンギット族の妻ケイトらがカナダ・ユーコン準州のボナンザ川で金鉱を発見したことで「クロンダイク・ゴールドラッシュ」が始まった。そのゴールドラッシュで発展した街ドーソン・シティで70数年後、地中に埋もれていたフィルム500本が50年振りに発見され修復復元された。その貴重なサイレント映画のナイトレート(可燃性)フィルムをもとに、その他の当時の写真や映像も組み合わせ、ナイトレートフィルムの歴史とドーソン・シティの歴史が語られる。ゴールドラッシュによって立ち退きを迫られた先住民は故郷を失い、10万人もの採鉱者たちがクロンダイクを目指したが、実際に金を掘り起こしたのは4000人と言われる。採掘権はごく初期の一部の人間に押さえられ、厳しい道を越え辿り着いたものの掘ることが叶わなかった人々は採鉱者相手の商売を始める。後にチャイニーズ・シアターなどを創設する興行師シド・グローマンは幼い頃ドーソンに父と共に渡り、エンターテインメントに飢えた人々にボクシングの試合などを企画し成功を収めたという。またドナルド・トランプの祖父がこの街で経営した娼館がトランプ一族の財を築くきっかけになったというエピソードは現代とゴールドラッシュ時代の距離を縮めさせる。
ナイトレートフィルムの原料であるニトロセルロースは火薬の原料でもあり、火災事故は珍しくない。ドーソンでも火事は記録されている。ナイトレートフィルムが原因の世界初の火事はパリのバザール・ド・ラ・シャリテの惨事 (1897年) だった。
アレックス・ソマーズによる音楽は、執拗に反復されるテーマが腐食により乱れた映像と相まって醸し出す郷愁感が、忘れていた古い記憶を思い出すような感覚に似ている。遠い過去ではあるが、確かに存在した街を近くに感じる。(文=4年・石田)
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カナダのユーコン準州の奥深く、アラスカの国境近くという辺境の地で永久凍土の中に埋もれていた大量のフィルムが水泳用プールから発掘された。その地の名はドーソン・シティ。1910年代から20年代にかけて、金の発掘で一攫千金を夢見た人々が世界各地から集まって来たことで隆盛を極めたゴールドラッシュタウン。そんな街のまさに繁栄を謳歌していた時代の姿が、フィルムと共に50年以上の眠りを経て我々の前に姿を現した。
フィルムの内容は活気に満ち溢れた街と多様な住民の姿を捉えた記録と、当時の街の施設で上映されていたサイレント映画だった。サイレント映画も、ドーソン・シティと同時期に黄金期を迎えていた。
しかし黎明期の映画フィルムには、非常に発火しやすいという致命的な欠陥があった。そのため結局は燃えて跡形も無くなってしまうか、保有者自らの手で廃棄されていた。プールに納まっていたそれらもやはり廃棄されたものだ。そもそもそれらは発掘されるまで、存在を抹消されたことすら知られていなかった。本編に使用されている映像に焼き付いた生々しい焼け跡によって、かつて人々を楽しませたサイレント映画が受けた残酷な境遇を伺い知ることができる。街そのものも、度々火災に見舞われながら可燃性フィルムよろしく徐々に消耗していく。殺到していた採掘者はあっという間に地を離れ、新しく作られた国道からは外れ、最終的にはかつてサイレント映画を上映していた施設も姿を消す。この映画はドーソン・シティ、そしてサイレント映画が如何にして没落し世間に忘れ去られていったかを漸進的に描いている。
全編にわたって記録に荘厳な雰囲気を落とし込むアレックス・ソマーズによる音楽と、発掘された貴重な映像の断片と共に、消え去った人々の文明の記憶を辿る120分だ。(文=3年・鳥越)
『アセント』Ascent (オランダ・日本/デジタル/2016/80分)
監督・脚本・製作フィオナ・タン/声:ヒロシ=長谷川博己、メアリー=フィオナ・タン
フィオナ・タンは1966年インドネシア生まれオーストラリア育ちでオランダの美術大学に学び、写真・映画・インスタレーション等を発表する女性のヴィジュアル・アーティストで、日本でも東京都写真美術館、Izu Photo Museum等で展覧会が開かれている。
『アセント』は、撮影された時代やアングル、状況などが異なる4000枚もの富士山の写真(一般公募とIzu Photo Museumのコレクションによる)と、手紙を読み上げる男女のヴォイスオーヴァーの声から成っている(イギリス人女性メアリーに届く日本人の亡き夫ヒロシからの手紙とカタログ解説にはある)。作者自身と思われるナレーションもまじっているようだ。
この映画における富士山は、日本のみならず世界における日本の象徴であり、様々な時代に切り取られた富士山の写真から日本がそれぞれの時代に国内外でどのような存在であったかを考えさせるような内容だった。ヒロシの手紙の中の富士登山の場面では、富士山が日本人にとって崇拝の対象であることを感じさせた。日本人の富士山信仰は、宗教的観念が浅い日本人独特の風習かもしれないが、 戦時下においては国民を戦争に駆り立てる重要な一要因となっていたことも同時に感じられた。また、浮世絵やサクラ、武士道などの観点からのアプローチでは、文化・芸術面における日本について語られ、日本の独特な文化が世界にどのような影響を与えたか、また外国人が抱いた日本のイメージによって現れてきた日本文化の独自性についても提起していた。富士山がキングコングとゴジラの対決の場になったことに関連づけて、広島の原爆投下に関するやりとりも描かれていた。ゴジラが日本人の核兵器への恐怖を具現化したキャラクターであるという説明がなされていたが、それを読み上げるヒロシの声には昨年公開された映画『シン・ゴジラ』のキャストである長谷川博己が起用されていた。
この作品は形式的には写真を順番に提示するスライドショー的なものであるが決してその枠にとどまらず、映画としての体を成している。そこには、メアリーとヒロシの会話から二人に共存する思い出や愛情を感じとることができ、また「富士山に象徴される日本」のほかにもう一つ大きなテーマ「写真と映像の両立は可能か」という問題提起もあった。メアリーの教授の言葉である「写真は氷で映像は炎である」という台詞は非常に印象的であった。この比喩では両者を相反するものとして位置づけており、決して共存できないとまで言いきっている。このテーマをあえてこういう形式で作品化することにより、この作品自体が写真と映像の両立が可能であることの証明になっていると感じた。(文=3年・師富)
『草る日々』(日本/デジタル/2017/9分)
撮影・脚本・出演 篠田知宏
鬱蒼とした草木に囲まれた自宅を男が黙々と刈っている。母の看病のために、東京の仕 事を辞めて帰郷した。母は数年前に亡くなった。手入れをしなければ家は草木に飲み込まれ てしまう。いつまでも刈って、刈って、刈り続けなければならない。終わりは見えない。歳のせいかアルバイトはなかなか身につかない。草を刈るのは重労働だ。特にゴミとして出すために大きな枝を短くカットする作業が面倒でならない。単純な重労働作業は彼を鬱々とした気分にさせる。鬱々と。鬱々と。こうして短くなっていく枝のように自分も粉々にできて仕舞えばいいのに。枝を切って、指を切って、枝を切って、指を切って、指を切っ て。細切れになって仕舞えばいいのに。
登場するのは男のボクだけ、流れるのはナレーションのボクの独白。ほとんどの時間、草を刈っているだけの単調な景色はとてもつまらない。けれどもその何も変わらない様子が妙なリアルさを醸し出していた。ボクを近所で見かけたことがある気さえする。後半枝とともに指を切り刻む妄想をするシーンがあった。窮屈な生活に「クサる」日々。何もかも諦めて放り出してしたいのにできない。最後にはたまった鬱憤を弾けさせて、妄想を実行に移してしまうのではないかと期待した。そんなことはなかった。気持ちの良い目の前が開けた野原で、土に足を埋めて自然と一体となり気持ちを切り替えてしまった。実に爽やかに終わった。全く事件性がない。毎日は何も変わらず、明日もまた同じ日が来る。
鑑賞した直後はあまり印象に残らなかった。しかし日が経つにつれて「クサって」も「なんとかなって」いる、不思議なほどに見覚えのある「普通」な感覚が蘇る。思い返すたびについついしみじみしてしまう作品だった。(文=3年・今尾)